しばらくは普通に見える母、
でもやっぱり、私はなんかしんどい。
私は家を出て独り暮らしをすることにした。
ちょうど転勤もあって新しい職場に近いところに部屋を借りた。
母が初めておかしくなって丸一年たったころ、
またそのおかしさは始まった。
父から連絡があった。
「お母さんが出ていって、帰ってこない」
聞けば、昨日出ていったきり、夜も帰ってきてないという。
私はあわてて実家に帰り、父と相談する。
母の行き先に心当たりはないか。
聞けば、母は先日白内障の手術をし、その関係で病院に行かなければならないと言っていたらしい。
ならば、と、その病院に二人で行ってみる。
母は、いた。
しかし眼科ではなく、持病(難病)の治療でお世話になってきた先生のところだ。
母は私に対し、けろっとした顔で「あら、元気?」と言った。
父は母に会うなりこう言った。
「とんでもないことしてくれるなぁ。どれだけ迷惑被ったか、わかっとるか」
私はぎょっとした。
なぜ、今、明らかに心病んでる母に、それを言うのか。
案の定母は、さっと顔をしかめ、大声で叫んだ。
「うるさいうるさいうるさい!」
待合室にいる人々がぎょっとしてこちらを見る。
母はまわりなど気にせず一気に捲し立てる。
一日家を空けただけではないか。ちゃんと病院に行くことは伝えていた。迷惑もなにもない。自分がちゃんとしてたらいいだけだ。
その時、看護師さんが来て、診察室に入るよう母に伝えた。
母は意気揚々と立ちあがり、看護師さんにぺちゃくちゃと話しかけながら診察室へ向かう。
「今日は入院させてもらいに来ました。病気の症状がよくないんです」
母は私と父に、診察室に入ることを拒否した。仕方なく、部屋の前のベンチに座って待つ。
やがて、診察室の扉が開き、なぜか父と私が入るよう言われた。
中に母はいなかった。別室で待たせているらしい。
先生は、悲痛そうな表情で、言った。
「お母さん、心の方が……よくないですねぇ」
そうなんです。
私は、昨年のことも踏まえて、昨日今日のことを先生に語った。
先生は言った。
「心の方は、昨年診ていただいたところで一度よくなったのであれば、またそちらにお願いした方がいいと思います。」
私は先生に頼んだ。
「母は、私たちが言ってもそちらの病院に行かないと思います。母は先生のことを信頼してます。先生から、母にそちらの病院に行くよう言ってもらえませんか」
先生は、「僕でもダメかもしれませんが」と言いつつも、了承してくれた。
母はやはり、ここ以外の病院は嫌だと言った。
そういえば、昨年、妄想中の母が避難しようと言った病院はここだった。
母はこの病院にこだわりがあるらしい。
信頼している先生がいる病院だからだろう。
母を縛ってつれていくわけにもいかず、どんなに説得しても拒む母を、どうしようもなかった。
母は自分の車にのって、どこかへ行こうとする。私は慌てて助手席に乗り込んだ。とにかく母を一人にできないと思った。
母はどこへ行くつもりだろう。
行き先は全く不明のまま、同じ場所をぐるぐる回ったり、どこかへ向かい始めたと思ったらまたUターンしたり。
「どこに行くの?」と聞くと、「病院」と答える。
「こっちは病院じゃないよ」と言うと、「あなたには聞こえないだろうけど、こっちの道を行きなさいって声が聞こえるの。その通りに行くの」と答えた。
やがてひとつの交番の前に停車する。
何をするんだろうと思ったが、そこは無人の交番だった。電話をかけると最寄りの警察署につながるらしい。
母はその電話を取って、まるで小学生がいたずら電話をするかのように、
「あのねー」とか、「今、これから病院いくのー」とか、相手意識まったく無しに喋り始める。
私は母から電話を奪った。
奪って受話器の向こうの警察官に謝った。
「すみません、母がちょっと、心の状態がよくなくて」
警察官は「今の、お母さんですか?すごく幼いように聞こえました」と言った。
「大丈夫ですか?あなた一人でついているんですか?」
「はい、大丈夫です。…病院に、つれていきます」
泣きそうになりながら、そう伝えた。
そうだ、病院につれていかなければ。
しかしどうやってつれていけばいいのだろう。
母は「病院」に行こうとしている。しかし一向に「病院」には着かない。
もう、母に運転させるのも怖い。
しかし母は運転席に乗ってしまう。私も慌てて車に乗り込む。
次に母が行ったのは薬局だった。
「薬をもらわないと」
確かに処方箋も持っていて、それを薬剤師さんにわたし、呑気に待ち合いのベンチに座って足をぶらぶらさせ始めた。
この間に!と思った私は、タクシーを呼んだ。
薬剤師さんに、事情を話し、車を置いていくことを許してもらい、母を引き留めるために、タクシーが来るまで薬の準備を遅らせてもらった。
タクシーが来た。
もう、私は、やっと、母にきっぱりと言った。
「病院にいくの。いいかげん。タクシーで行くの」
母はきょとんとしていた。母の手を引いて、タクシーにのせた。
「無理やり」は嫌だった。しかし、結局は無理やり病院に連れていった。
昨年と同じ病院へ。
母は再び、入院することになる。