私は結婚して昨年25年を迎えた。
夫とは大学時代に知り合い、付き合いが始まってすぐに病気の事を打ち明けた。
一緒にいればインシュリンを打たなければならないし、万が一妊なんてっ事になってはいけないと思ったから。
夫は何事にも動じない人であっさりと受け入れてくれた。
私の卒業と同時に結婚の話が出て、1年後に結婚した。
父は会社を経営していたので、夫に継いでくれるかどうか心配だったのではないかと想い「会社やってるけどどうする?と聞いてみた。
すると夫は今の会社に居ても先は見えてるし、やってもいいよと何事にも動じないこの性格が何ともひょうひょうとして、あっさりと会社に入る事を引き受けた。しかもどうせなら婿養子になった方が仕事が円滑に進むと言われると、これまたあっさりと承諾したのだった。
あちらのご両親は少し抵抗があったが、息子のためと承諾してくれた。長男なのにないいのか?と私が心配するほどだった。
今になってみると、おっとのこの性格のおかげで私は闘病も出来ている。ありがたい人だと感謝している。
そうして結婚から2年目に長女を妊娠した。そして婦人科の先生に中絶を勧められた。父も私は結婚も妊娠も諦めていたようで、私の事を心配してやめた方がいいと言っていた。でも私も夫も大丈夫と主治医と相談して、妊娠を継続下。妊娠中はこれがいつもより調子がよく、ヘモグロビンA1Cも安定していた。主治医からは妊娠が向いているのかな?とまで言われた。子供のために頑張らなくてはという気持ちが無意識に働いたのかもしれない。5ヵ月ごろになると、子供の育ちがよくないと安政治療で1か月ほど入院した。普通妊娠糖尿病ンs度では子供が大きくなり、巨大児が生まれる事が多いが私の場合は逆だった。その後は経過もまずまずで、無事に出産予定日を迎えた。でも2日過ぎても陣痛が起きない。陣痛促進剤を使うことになった。1日経っても陣痛は付かず、子宮口を広げる処置もしたがいっこうに来ない。
先生は翌日帝王切開にしましょうと、その日は促進剤もやめた。所が夕食が終った頃、突然陣痛が起こり始めた。先生も夫も帰ってしまって、先生は呼び戻され、大事をとり、真夜中に緊急手術となった。夫は家に着くと留守電に緊急の手術になたあので戻って欲しいと言われ当時神奈川の辻堂から、また1時間かけてとんぼ返りをすることとなった。そうして、無事に手術を終えた。心配された心臓の奇形もなく、ちょっと低血糖気味ではあったが、無事に生まれた。ただ予想通り小さくて2500グラム以下の低出生児と母子手帳にハンコを押されてしまった。
それでも保育器に入り、体重が少し増えるまで1週間、母子ともに退院できた。
出産時は産婦人科医も万全の体制をとってくれて、なにやら新しい機械で、インシュリン量をコントロールしてくれた。
しかしその機械は導入が初めてだったようで、上手く作動せず、ピーピーと警告音ばかり鳴って、結局従来の形になった。
どうやら麻酔科で初の試みをされたよう。大学病院ならではの事だろう。出産にも研修医や新米の医師が数人立ち会っていた。
おかげで機械の警告音の旅に私も付き添っていた音も眠れずに一晩過ごした。どっちみち私は痛みのために眠れない。痛いという声で夫も眠れなかった。
そんなドタバタした長女の出産。今や秋には25歳になる。大きくなったものだ。ちょっと心配な事もある。高校の時に尿検査ゲひっかかり、Ⅱ型の境界型糖尿病のよう。恩人の主治医に診てもらっていた。主治医は大学病院を定年退官し、大学病院ん御近くに小児科の代謝内科を開業し、私もそちらに移った。長女も一緒に診てもらっていたのだが、東京で就職したものの、契約社員で入社したために契約が切れ、実家に戻ってきた。仕事はゲームのキャラクターデザインということをしていて、元の会社から仕事をもらい、在宅でパソコンで絵を描いている。
座り仕事で運動不足が心配だが、今は家事と体調の悪い私の世話をしてくれている。
次女は4歳下、出産は予定の帝王切開で、こちらは生まれた時に低カリウム血症となり保育器で紫外線治療を受けたが体重は標準で、やはり1週間程度で退院できた。同じ大学病院なのだが、場所が飯田橋と千駄木だった。
長女は出生地が東京、二女は茨城という母子手帳を貰ったのがちがうからか。その二女も21歳になった。いろいろあって、昨年からペットの専門学校に通い」、今年は就職活動がまもなく始まる。
私のように結構重症の糖尿病患者でも出産は無事に出来ると言うお話。