私の人生を決定づけたのは、
「タンゴ・デ・ラ・エスペランサ」で行ったアルゼンチンでの演奏。
機内だけで24時間と言う地球の裏側。
アルゼンチンのエセイサ空港に着くと
その日が人生最後のフライトと言うパイロットを讃え、機内の乗客から万雷の拍手。
当時の日本では経験したことがない光景に驚き。
出迎えのSADAIC(日本のJASRACに相当)役員と共にVIPルームで記者会見。
後に知ったがTVではマルビーナス(フォークランド)紛争以来、久しぶりにテロップが流れ、「あと1時間30分でTVスタジオに到着」との表示が!
余談だか、当時日本では見かけなかったベンツの大型バスで移動。
時差ボケで、足元フラフラしつつ
いきなりTVスタジオへ。
偶然、カバンの中の楽譜で
一番上に入れてあった「レクエルド」を演奏。
その日のメインは、プグリエーセ楽団。
そのマエストロ、オズワルド・プグリエーセが
自身の代表曲「レクエルド」を我々が演奏したことを、とても喜んだとのこと。
一番光栄だったのは
南米各国に売られる人気番組「グランデス・バローレス・デル・タンゴ」への出演。
ステージ周りをぐるりと囲んだ丸テーブルには、ワインや美味しくサンドイッチが提供され、まるでホテル・ディナーショー。
あちこちのTV出演の他には
アルゼンチン最大のライブハウス「ビエホ・アルマセン」への出演。
驚いたことにこのステージでの録音がラジオ放送され、
翌日タクシーに乗ったら運転手が「あなたの演奏は素晴らしかった」と私にサインをしてくれと言う。
そして「お金は要らない」とタクシー運賃がタダに。
しかも、このパターンが10日間のうちに3回も!
ちなみにパリでは1回、日本では1度もない・・・。
次々と予定にない公演が追加され観光どころではない。
中には、人気女性作曲家だった
マルハ・パチェコ・ウエルゴ宅に招かれたり
ブエノスアイレスから遠く離れたマリアーニ宅でのアサード(焼き肉)パーティー。
屋外での巨大バーベキューのようなもので、ガイドいわく
「場所が分からなくても良い。何故なら今は超不景気なので、焼き肉パーティーの煙が立ち昇る場所を目印にすれば良い。」
マリアーニ氏は、当時世界一のバンドネオン(ドイツ産まれで、協会のパイプオルガンの屋外用として作られた)調律師。
タンゴ好きなローマ教皇がアルゼンチン来訪時にバンドネオンを献上し、お礼として教皇からプラスチック肖像画を頂いた人。
我々の来訪に感激したマリアーニ氏はアサードの後、同行した私の母に「これを差し上げたい」と言ってプレスチック自画像を手渡すと言うサプライズ!
「セニョール、加藤は偉大だがあなたを産み育てたお母さんは、それより偉大」との言葉。
昔の日本人と同じ・・・。
私たちの公演には、
過去の日本人楽団のしなかったことをやって喜ばれたことがあった。
それは音響テクニシャン、服部徹氏(名古屋市民会館創設時の職員)を同行したこと。
当時のブエノスアイレスのライブハウスはもちろん、著名なレコ―ディング・スタジオでも高級機材のコードが断線したりネズミの被害を受けたまま未修理・・・といった状況だった。
それをハンダゴテで幾度修理したことか。
ちなみにジャクリーヌ・ダノのレコ―ディングで訪れたパリのスタジオでは
ネズミよけの為に、ミキシングルームの中でネコを飼っていた。
*ただし、レコ―ディング・ディレクターの椅子には絶対座らない
そしてダノのピアニスト、エルベ・セランが連れて来た犬とにらみ合い。
するとエルベは、レコ―ディング・ブースの中のピアノ椅子に犬をしばってリハーサル。
さすがに本番は建物の外に・・・。
アルゼンチン公演が後のフランスでの公演につながって今日まで私の人生を彩ってくれました。
P.S.
この公演の模様を収録したLP「レクエルド・デ・ルナ・アスール」には、ピアソラのメッセージが掲載されオークションで10,000円になったことも!!