加藤修滋のブログ

加藤修滋のブログ

日仏シャンソン協会活動記録及びシャンソン界のニュース等

公的には「重度身体障害者厚生援護施設」「福祉事務所」「児童相談所」。

 

 

退職理由は、東京での「レオ・フェレ来日公演」の為の休暇願いを認められなかった事。

翌朝、所長の机の上に(叩きつけたけれど残念ながら、まだ誰も出勤していませんでした)退職届を置いて上京。

 

 

その後、「軽音楽の集いmss」や「エルム」の活動をする様になってからは「オーバーステイ」で入管に見つかるのにおびえるフィリピン人ホステスの精神的ケアとしてのカウンセリングをほとんど毎日のように行いました。

 

 

公的な時もそれなりにやり甲斐はありましたが、人生後半のボランティアとしてのケースワーカー人生が私の誇りとして残っています。

 

 

愛知万博の催事でも協力してくれたJAY、シドニー・キャロンのCMポスターのモデルを務めてくれたロータ等、みんな充分すぎるお返しをしてくれたフィリピーナは、人間的にも優しい人たちでした。

 

 

感謝!!

 

 

名古屋の役者と言えば、天チンこと「天野鎮雄」さん。

 

 

彼が率いる「劇座」のメンバーを「松本幸枝」のコンサートに出演させたり、フランスを代表するモノローグ「冷たい美男子」の日本公演を実現して下さったりしました。

 

 

逆に天野鎮雄さんが演ずる劇中歌の指導をさせていただいた事も。

奥様の山田昌さんにも合唱組曲「山に祈る」のナレーションでお世話になりました。

手前勝手な言い方ですが「エルム」ほど、フランスのアーティストに知られた存在の「カフェ・コンセール」はありません(その詳細歴史は割合)。

 

 

中でも「平和希求ライブ」と「法定訳詞ライブ」はエルムを代表する企画です。

前者は今の時代には不可欠なものですが、娯楽としてのエンタメの世界では好まれません。

 

 

後者は日本では著作権に対する意識が希薄な為、知られていません。

でも「人に人権、音楽に著作権」と言う様に大切な物です。

 

 

エルム独自の活動を単なる遺産として記録に残すのではなく、この先もずっと継承すべきだと自戒する次第です。

新幹線で東京へ行く時の思い出と言えば「成城石井」。

 

 

名古屋駅の「成城石井」売店で美味な物を購入、品川駅に到着すると、そこにも「成城石井」の販売店が!何がしかを買って、品川プリンス・ホテルへチェックイン。

 

 

そんな昔の思い出の製品を最近プレゼントしてもらいました。

「オレンジ・ソーダ」や「あごだし藻塩煎」等、美味しい物を懐かしく頂きました。

 

 

幸せなひとときでした。

2024年10月11日、「日本被爆者団体連絡協議会」に「ノーベル平和賞」が授与されたとAP、共同、英BBC、米CNN等が一斉に報じた。

 

 

これを機に反核平和への動きが盛んになる事を願いたい。

ノルウェーのオスロから発せられたこのニュースは遅きに失した感もあるが、既に「Hibakusha」は世界共通語となり心ある人々の間で共通語となっている。

 

 

核廃絶のうねりがより早く、より広く、より多くの国に押し寄せる事を願うばかり!

 

 

飛び起きざまのブログがまもなく1,000回目の記念となりました。

 

 

ちなみに、この運動が行われる広島・長崎に言及した「モーリス・ファノン」の作品「ヒロシマ」の中には「ヒロシマ」「ナガサキ」両都市名が出てきます。

 

 

過日に書いたブログ「シャルル・アズナヴール公演の真相」でアズナヴール人生最後のステージとして大阪公演での事を書きましたが、コメントがあったのでお答えします。

 

 

 

 

シャルルの人生最後のステージは、フランスでも母国アルメニアでもなく、この日本。

評論家の先生方は、”最後”のステージとして日本公演を評論しましたが、それは東京公演のみ。

本当に記すべきは最後の大阪公演!という内容のブログでした。

 

 

私は、大阪公演の前日に彼とホテルのロビーで会いました。

彼は、私の健康を気遣って自宅で採れたオリーブオイルの缶をプレゼントしてくれました。

彼には旅の疲れ(強行軍)が見えましたが、私の前では元気にふるまっていました。

 

 

 

そして本番には、ハイテンションで登場。

途中で杖を持ち出し、気力だけで乗り切ろうとする様子でした。

 

 

圧巻は、ジャケットを振り回し、まるでロック・スターのごとく上手袖に投げ込んだ所。

まだまだ自分はやれる!と言う気迫が伝わる最後でした。

 

 

NHK大阪ホールで開催された”奇跡の来日公演”は、いわばそれが彼の最後のハイライト・シーン!

 

 

これを観ずして日本公演を論評した評論家は、世界のアズナヴール・ファンに致命的なミスをしたと思うと残念でなりません。

 

 

今月、フランスではまもなくアズナヴールの伝記映画が封切られるとの事。

今年、生誕100周年となるアズナヴールの残した歌の数々は、今日も世界のどこかで歌われているでしょう!

 

 

▼映画「Monsieur Aznavour」

https://youtu.be/yjzb0DTe14s?si=C_FQRkCPQXa3BbQ8

 

 

 

アルゼンチンの新聞に「タンゴ界の新星」と紹介された「ドミンゴ・モーレス」は初来日が最終ステージとなりました。

 

 

若くしてエイズで亡くなったのです。

ドラムも加えたモダンなスタイルは、私達日本人に鮮烈な印象を残しました。

 

 

彼はステージ終了後、そのままずっとエルムの2階でバンドネオンやピアノの弾き方を教えてくれました。

 

 

「次に来た時には、一緒に演奏しようね」と言っていたのに成就しませんでした。

 

 

残念な思いと共に、彼のとっても優しい人柄を思い出します。

 

シャンソン大使「ジャクリーヌ・ダノ」の伴奏者として来日公演をしていた「エルベ・セラン」と「J.P.メナジェ」は、仕事が無い日に「どこか飲みに行きたい」と言うので、知り合いのフィリピン・パブへ連れて行き、ママに面倒を見てもらいました。

 

 

日本人ホステスのスナックでは言葉が通じないけど、フィリピーナは英語がお得意(中にはパンパンガ出身だとスペイン語も話せる)。

 

 

その時のご機嫌な2人の写真が出て来た!

エルベと一緒に写っている娘は、来日10日くらいで”チビ”と呼ばれていたなぁ

 

 

写真のアルバム整理をしていたら、めずらしいショットが出て来ました。

 

 

「美輪明宏」さんが「名古屋巴里祭」の打上で出られ、その日客席で聴いていた「ジャクリーヌ・ダノ」が合流した時のもの。

 

 

母が大好きな2人に囲まれて、とても嬉しそうにしているのが印象的。

母の至福の3ショットです!

 

学生時代、イタリアのジェノヴァ派カンタウトーリ愛好誌「スクニッツォ」の著者として知った「長南博文」氏は、1989年のエルム第1回パリ公演以来ずっとお世話になった方。

 

 

とにかく面倒見の良い方で、この方が居なければ私達のフランスに於ける活動は出来なかったと言えます。

 

 

写真を撮るのはお好きではない彼が「ジャクリーヌ・ダノ」と私の3ショットが見つかりました。

懐かしくながめています。