世界史教育について考えよう~第2回 水と油のように異なる西洋史と東洋史の世界観 | チャンネルくららブログ

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世界史教育について考えよう~第1回 そもそも「西洋史」と「東洋史」の哲学は、根本的に異なっている

の続きです

 

 

 

 

「歴史」という熟語をつくったのは日本人

 

前回の連載では、西洋の歴史観の根底に存在しているへーロドトスの思想が、どのようなものであったのか、ということをお伝えしました。さて、そのような三つの世界観をもつ西洋式の歴史学を、明治時代にドイツ人リースから学んだ日本人は、「ヒストリアイ」から生まれた「ヒストリー」を、「歴史」という漢字に翻訳しました。

もともと漢字の古典に存在していたのは、「史」という字だけです。その「史」にしても、司馬遷『史記』を書くまで、「歴史」の意味はありませんでした。「史」とは、文書係の役人という意味で、『史記』の「史」に、代々つながっていくという意味の「歴」をつけて、「歴史」という二文字熟語をつくったのは、じつは日本人なのです。

 

司馬遷
(紀元前145/135年? – 紀元前87/86年?)

 


現代中国語にも歴史という言葉があるではないか、と思われるかもしれませんが、それは日本から逆輸入したものです。明治時代の日本人は、近代化のために多くの欧米の文献を日本語訳しましたが、それまでの日本語や漢文の古典にはなかった概念を、漢字二文字の熟語で表しました。ほとんどは新しい漢字の組み合わせですが、古典にあった語彙もあります。しかしもちろん、その意味は違います。

1894~95年の日清戦争に負けたあと、日本に留学した多くの清国留学生たちは、欧米の書物が漢字に翻訳されているので、喜んでそれをそのまま受け入れ、さらに日本の教科書を持ち帰って近代化教育に利用したので、現代中国語には日本語がもとになった言葉がたくさんあるのです。 

日清戦争(日本軍歩兵の一斉射撃)


とはいえ、同じ漢字を使っていても、われわれ日本人の考える歴史と、中国人の考える歴史は、その内容がずいぶん違います。現在の日本人が「歴史」というとき、まず、もとになっているのは、ドイツ人リースが日本に伝えた西洋史です。ヘーロドトスが『ヒストリアイ』で示した三つの世界観の一つは、政治勢力の対立・抗争が世界の変化を起こす、というものでした。

しかし、現在の中国人が「歴史」だと考える司馬遷の『史記』の世界観は、今説明した西洋の歴史観とはまったく異なっています。漢の武帝の家来であった司馬遷が『史記』を書いた理由は、自らが仕えている君主がいかに正統の天子であるかを証明するため、ということでした。

前漢 7代皇帝武帝

(在位:前141年3月9日 - 前87年3月29日)
 

 

シナ史は世界の変化を無視して記述しない

 

当時の中国大陸では、シナ(チャイナ)の語源ともなった秦の始皇帝が、紀元前221年に初めて中原を統一しました。この秦を倒したのが、血統の異なる漢という王朝です。司馬遷は、漢が正統の王朝であることを証明する必要がありました。

 

兵馬俑近郊に建設された始皇帝像

 



中原

黄河中下流域にある平原のこと

 

 

そこで司馬遷は、黄帝という最初の天子から、天が命を変えることで王朝が交代し、夏、殷、周、秦、漢と続いてきたと説明しました。そこでは天は永遠不変であり、その「天命」によって天子が交代する。これがシナの歴史です。

皇帝は、漢語では「光り輝く天の神」という意味です。つまり、天から命を受けて世界を統治する権利をもっている人間ということです。だから、天下に皇帝は、ただ一人しか存在できません。また、人間世界に天災や争いなどが起こったら、それは天の命を守ることができなかったということで、皇帝の責任になるのです。

どうして血統の異なる王朝が次々に建ったのかというと、天の命に背くようなことをした天子はその位を失いあらたに天命を受けた別の一族が新しい王朝を建てたからだというのが、司馬遷による解釈でした。

それで『史記』からのちの『明史』に至るまで24も書きつづけられた、シナにおける正史はすべて、それぞれの皇帝がどのように天命を守ることができ、どのように天命に背いたかを描くものになりました。つまり、シナの正史は、皇帝という制度を語る歴史なのです。

 

 



史記の一頁目

 

そもそも天は不変です。最高神の命令である天命がくだって正統の皇帝の地位に就いたということは、歴史が始まったときの黄帝と同じ権力があることを意味します。だからシナ型の歴史では、現実の世界の変化は書き込む余地がない、つまり、変化を無視し、記述しないという特徴があるのです。

政治勢力の対立が変化を起こすと考える西洋史。一方で、現実の世界に変化はない、と考えるシナ史と、それをもとにした日本の東洋史。この二つは、基本となる歴史観が水と油のようにまったく異なっているのです。この二つを合体させたところで、筋書きがまとまるはずはありません。

私の手元にある山川出版社『詳説世界史B』でも、たとえば第Ⅰ部第1章「オリエントと地中海世界」では、メソポタミア、エジプト、ギリシア、ローマ帝国を語り、第2章「アジア・アメリカの古代文明」では、古代インド文明、黄河文明から秦・漢帝国、南北アメリカ文明をばらばらに語り、第3章「内陸アジア世界・東アジア世界の形成」では草原の遊牧民から隋・唐帝国、五代十国までのシナ史を語っています。それぞれの章の関係はなく、各地域は別々に物語られています。



 

第Ⅱ部も、第4章「イスラーム世界の形成と発展」、第5章「ヨーロッパ世界の形成と発展」、第6章「内陸アジア世界・東アジア世界の展開」と、やはり地域ごとに物語っていますし、大航海時代が始まった14世紀以後の第Ⅲ部ですら、アジアとヨーロッパは別々の章になっています。世界史の筋書きは相変わらず西洋史と東洋史のままであることが、おわかりいただけるでしょう。


 

なぜマルコ・ポーロの逸話が強調されるのか

そのほかにも、そうしたシナ史をもとにした日本の東洋史自体に、数々の問題が山積していました。そもそも東洋史という学科は、日本の歴史教育をそのまま輸入した韓国を除けば、日本にしか存在しません。中国で東洋史と言えば、海を隔てた東ということになり、日本史のことを指します。

東洋史の発端は、日本に西洋史が導入された明治時代、それまで漢文で「四書五経」や正史の「二十四史」を読んでいた日本人が、シナの王朝史を西洋史に負けないようなものにしようとしてつくった、というものです。

四書五経(ししょごきょう)は、儒教の経書の中で特に重要とされる四書と五経の総称

 

シナの王朝交代史である「二十四史」は、ある王朝が先ほど説明した「天命」を失って、次の王朝の皇帝が天命を得たことを証明するために書かれています。それを、各時代の支配地域の広がりや、住民の生活の変化、北方の遊牧民の移動などと関係づけた歴史学にしたのは、われわれ日本人なのです。

じつは今、「中国史」と言われているものは、明治時代以降の日本人が「支那通史」として、ヨーロッパ史に対抗してつくったものです。当時の西洋史は、シナをもともと相手になどしていませんでした。けれども東洋史のほうは西洋史をモデルにしたわけだから、なんとか支那史を西洋史と対等にして関連づけたいわけです。

だからこそ、たとえばローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス「安敦」という漢字の名前で出てくる(『後漢書』西域伝)ということから、シルクロードを通じて東西の交流があったとか、マルコ・ポーロがヴェネチアから大都(現在の北京)にやってきた、などという東西交渉史が、東洋史ではとくに大事にされて、教科書に書かれることになりました。



マルクス・アウレリウス・アントニヌス

第16代ローマ皇帝(在位:161年 - 180年)

 

私の専門である遊牧民研究でも、万里の長城の外を扱った塞外史で登場する匈奴(紀元前4世紀~紀元後5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族、またそれが中核となった遊牧国家)が、西へ行ってゲルマン人のヨーロッパへの民族移動を引き起こしたフン族になった、ということなどを組み込んで、西洋史と東洋史を一つの世界史にしたいという衝動が見られます。しかし、これらはいわゆる西洋史の本流から見れば、何の関係もない、とるにたらない話なのです。


フン族を描いた19世紀の歴史画(ヨーハン・ネーポムク・ガイガー画)

 

 

 

 

レボリューションを「革命」と訳した大問題

 

さらに明治時代の日本人が、ローマのアウグストゥス(「尊厳なるもの」という尊称)を「皇帝」、フューダリズムを「封建制」、さらにはレボリューションを「革命」と訳したことで、当時の東洋史はもちろん、現在の世界史にも、大きな混乱がもたらされました。

 

秦の始皇帝に始まるシナの皇帝は、先に述べたように天下を統治する「天命」を受けた世界の中心ですが、ローマのアウグストゥスは、元老院の筆頭議員にすぎません。あるいはシナ史における「封建」は、武装移民が新しい土地を占領して都市を建設することを意味しますが、ヨーロッパ史の「フューダリズム」は、騎士が一人または複数の君主と契約を結び、所領(フュード)の一部を手数料(フィー)として献上して、その見返りに保護を受けることを指します。

 

中世のフューダリズムはお互いの契約を前提とした現実的なもの

戦う人(騎士)、祈る人(聖職者)、働く人(農民)の中世西欧三身分を表す図

 

なぜ日本人がフューダリズムを「封建」と訳したのか? おそらく、江戸時代に幕藩体制を封建と呼んでいたから、ということが理由でしょう。それにしても、実力でローマを支配した将軍を元老院が筆頭議員に推挙したのにすぎなかったアウグストゥスのことを「皇帝」と訳してしまうと、まるでローマ帝国が、シナのような専制君主に支配された帝国であったかのように、日本人は感じてしまいます。

 

また、レボリューションは、もともと「回転」や「周期」という意味で、横に転がってもとに戻ることを指し、その主体は人間です。ところがシナの革命は「天が命を革める」のであって、主語は天です。

 

さらには、日本人がフューダリズムを封建と訳してしまったせいで、シナでは紀元前11世紀~前3世紀の周代に「封建」があって、そのあと秦の始皇帝の統一があるわけだから、シナ史では、中世のあとに古代がくる、ということになってしまいました。

 

 

そもそも中世とか古代という時代区分は、戦後の日本の教育界でも一世を風靡したマルクス主義が、「古代奴隷制、中世封建制、近代資本制、未来共産制」と、各時代には特有の生産様式があるとした、ということに拠っています。これにぴったり一致する場所は洋の東西問わずないのに、いまだに歴史教科書は、古代、中世、近世、近代、現代という時代区分をしています。 

 


カール・マルクス

(1818年5月5日 - 1883年3月14日)

 

 

そうした区分の影響下で日本の東洋史学者は、ヨーロッパ式の時代区分がシナでは成立しないため、中世から古代への逆行の理由を「東洋の停滞性」とか、「アジア的生産様式」とか、「なし崩しの中世」などという、意味不明な言葉で説明することになったのでした。

 

ことほどさように、西洋史と東洋史のあいだの高い壁と誤解は、解けないまま現在まで続き、それを学ぶ人たちに混乱を与えつづけているのです。〈次回に続く〉