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昨日、チャンネルくららブログ

大学受験生2人に1人が使うスタディサプリで世界史講師が「コミンテルン32年テーゼ」を教えている!

でご紹介した、スタディサプリの世界史講師村山秀太郎さんは、実はDHCテレビなどで、宮脇淳子先生ともご共演されているのをご存知でしょうか?

 

今日は、宮脇淳子先生が「世界史」という学問をどのように捉えているか、以下の著書よりご紹介しましょう。

 

 

 

イントロダクション

私はこれまで、モンゴル史から極東の近現代史に至るまで、さまざまな切り口で執筆をしてきました。しかし、その一方で私は、大きな問題意識がありました。それは「今、日本で『世界史』と呼ばれている歴史はあまりに歪んでいる。それを糾さないかぎり、目前に広がる『世界』を日本人は正確に認識できないのではないか」というものです。

 そうした問題意識を一冊に結実させたのが、『どの教科書にも書かれていない日本人のための世界史』(KADOKAWA)という一書です。その内容も引きながら、本稿ではそもそも教科書で書かれている、あるいは識者の語る「世界史」のどこがおかしいのか、ということを徹底的に明らかにしていきましょう。その歪みを理解できれば、「世界史ブーム」ともいわれる今、ほんとうに学ぶべきものは何か、ということが、おのずと浮かび上がってくるはずです。

 

 

世界史という教科は戦後につくられた

 

現在、中学や高校で教えられている世界史という教科は、1945(昭和20)年、第二次世界大戦が終わったあとに始まりました。敗戦国となった日本がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に占領統治されていた時代に、戦前に教えられていた西洋史と東洋史を合体させたものが、世界史となったのです。

 

連合国軍最高司令官総司令部が入った第一生命館(1950年頃撮影)

 

 

それでは、戦前の日本における歴史教育とは、どのようなものだったのでしょうか。そこから話を始めなければなりません。なぜなら、現在の日本で使われている世界史の教科書には、世界各地のさまざまな記述が登場しますが、今申し上げたように、戦前における西洋史と東洋史という二つの歴史学の流れが、色濃く反映されているからです。

 

江戸時代の1853(嘉永6)年、アメリカの東インド艦隊司令長官ペリーが黒船で来航し、翌54年の日米和親条約によって開国した日本は、西洋列強の植民地とならずに世界のなかで生き残るため、産業革命を経て飛躍的に発展していた西洋の文化・技術を学ぶ必要がありました。

嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航 ペリーに随行した画家ヴィルヘルム・ハイネによるリトグラフ

 

 

当時の列強のなかで、いちばんの大国は、じつはアメリカではなく、イギリスでした。次いでフランスが強国で、ドイツはちょうど列強の仲間に入りはじめたところです。そして、日本が明治時代に入り、国民国家として世界に打って出るのと同じころ、アメリカも太平洋への進出を目論むようになりました。

 

日本はすでに幕末期から欧米に数多くの留学生を派遣していましたが、明治政府は西洋の新しい学問を学ぶために、外国人教師を破格の給料で多数、雇いました。いわゆる「お雇い外国人」です。

 

日本が近代化に成功した理由の一つに、理系だけでなく、文系の学問についても西洋の新しい潮流をそのまま輸入して、なんとか定着させようとしたことがあげられます。官僚だけでなく民間の人たちも含めて、官民が合同で貪欲に新しい知識を吸収したのです。

 

その文系の学問の一つである歴史学については、「ただ事実を記すのみ」という言葉で有名な、当時のヨーロッパで勢威を誇った実証史学の提唱者である偉大な歴史学者のドイツ人、レオポルト・フォン・ランケの弟子、ユダヤ系ドイツ人のルートヴィヒ・リースが、1886(明治19)年公布の大学令により改組されたばかりの帝国大学に招聘され、翌年、文科大学に史学科を開設しました。当時の帝国大学にあったのは、法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学の五つです。

 

ルートヴィヒ・リース

 

そして、この帝国大学が1879(明治30)年に東京帝国大学となり、さらに戦後、現在の東京大学になり、文科大学が文学部となります。リースが帝国大学で教えた歴史学から、日本の西洋史が始まります。1889(明治22)年には、文科大学に国史科が設置されました。これが戦後の日本史につながっていくのですが、今見てきたように、日本の大学制度においては、最初から西洋史と日本史は別々の学科だったのです。

明治末期の東京大学赤門

 

さらに同年、それまでの漢文学科は漢学科とされましたが、シナ史を対象とする漢史科がいつできたのかはわかりません。1904(明治37)年になって、国史・史学・漢史の三学科が、新しく創設された史学科に統合され、史学は西洋史に、漢史は支那史に名前が変わります。1910(明治43)年には、支那史が東洋史と改称されました。この段階で、国史・西洋史・東洋史という三分野が日本には揃ったのです。

 

 

 

絶対に嚙み合わない西洋史と東洋史の哲学

 

しかし、そもそもなぜ日本では、このようにして歴史学が三つの分野に分けられたのでしょうか。

 

結論から言ってしまえば、その三つを一緒にすることは、そもそも不可能だったのです。具体的には、西洋史のもとになった、紀元前5世紀の古代ギリシアの歴史家で「歴史の父」と言われるヘーロドトス(紀元前485年ごろ~紀元前420年ごろ)がつくり出した地中海文明の歴史観と、東洋史のもとになった、前漢の武帝に仕えた司馬遷(紀元前145/135年~紀元前87年ごろ)が紀元前1世紀につくり出したシナ型の歴史観が、まったく異なっているからです。

 

そして、もう一つの日本史はと言えば、日本に現存する最古の正史である『日本書紀』以来、日本天皇は天の神様の子孫であり、日本は海の外の諸外国の影響を受けてこなかった、という筋書きで書かれていますから、東洋史とも、西洋史とも嚙み合いません。

 

もう少し詳しく説明していきましょう。

 

まずは、西洋史から。地球上で最初の歴史書と言えるのは、ヘーロドトスが、紀元前5世紀にギリシア語で書いた『ヒストリアイ』です。ギリシア語の「ヒストール」は「知っている」という意味の形容詞で、それを動詞にした「ヒストレオー」は「調べて知る」という意味。名詞「ヒストリア」は「調べてわかったこと・調査研究」、その複数形が「ヒストリアイ」です。

ヘロドトス 

(紀元前485年頃 - 紀元前420年頃)

 

つまり、ヘーロドトスが『ヒストリアイ』を書いたとき、彼には歴史を書いている、という意識はありませんでした。へーロドトスは、「私が調べてわかったことを書きました」という意味で、その書の題名を「調査研究」にしたのです。

この書名が英語の「ヒストリー」、さらにはフランス語の「イストワール」の語源になりました。

 

ヘーロドトス以前には、「歴史」を意味する言葉がギリシア語にはなかったのです。つまり、ヘーロドトスがこの本を書くまで、そもそも「歴史」という考え方は存在していませんでした。まさにヘーロドトスが、「歴史の父」と呼ばれる所以です。

 

さて、『ヒストリアイ』に何が書かれているかといえば、ギリシア人の話ではなく、その大半は、現在のイランを中心に成立していたペルシア帝国についての話でした。なぜかといえば、当時の地中海世界を取り巻く地域の共通の言語はギリシア語でしたが、そこで圧倒的な存在感を誇ったのは大帝国であったペルシアで、当のギリシア自身はといえば、アテネやスパルタのような都市国家に分かれており、その領域も小さかったからです。

 

ではなぜ、ヘーロドトスが『ヒストリアイ』を書こうと思い立ったのか。それはご存じのように、紀元前480年、ギリシアの都市国家同盟が、ギリシアのサラミス島近海で行なわれた「サラミスの海戦」で、大ペルシア帝国に勝利したからです。

 

サラミスの海戦 紀元前480年9月

 

 

弱小ギリシアの都市国家同盟が、なぜ大国ペルシアに勝てたか? ヘーロドトスはその理由を知りたいと思い、エジプトなど行けるかぎりのところを旅行して、人の話を聞き、読めるものはすべて読み込んで、『ヒストリアイ』を書きました。つまり、それは真の「調査研究」であったのです。

 

自分の足で確かめた結果、ヘーロドトスは、ヨーロッパとアジアのあいだの内海である黒海とエーゲ海を結ぶ海峡(現在のダーダネルス海峡とボスポラス海峡)の東側をアジア、西側をヨーロッパとし、このアジアとヨーロッパのあいだで積み重なった「恨み」が、ペルシア軍のギリシア遠征の原因だと解釈しました。

 

アジアとヨーロッパのあいだで積み重なった「恨み」とは、ギリシア神話に描かれた王妃であるヘレネーの誘拐が原因となったトロイア戦争(小アジアのトロイアと、ペロポネソス半島のミケーネとの戦争)の話などで、それが史実であったかどうかはわかりません。でも、ヘーロドトスはそのように解釈したのです。

トロイア戦争(トロイの木馬)

 

 

 

「歴史の父」ヘーロドトスの説く世界観

 

そして『ヒストリアイ』が世界最初の歴史書であり、ギリシア文明が現在のヨーロッパ文明につながっていることもあって、ヘーロドトスの世界観は、いまだにわれわれの世界に大きな影響を与えています。その世界観とは、大きく分ければ次の三つです。

 

第一には、世界は変化するものであり、その変化を語るのが歴史である、ということです。これが、のちほど述べる東洋史の世界観とはまったく異なっている、ということが重要なので、覚えておいてください。

 

ヘーロドトスは『ヒストリアイ』の序文において、「かつて強大であった国の多くが、いまや弱小となり、私の時代に強大であった国も、かつては弱小であった。されば人間の幸運が決して不動安定したものでない理りを知る私は、大国も小国も等しく取り上げて述べてゆきたいと思う」と記しています。国も人間と同じように、生まれて幼年時代を経て、成長して壮年となり、やがては年老いて死ぬ。彼はそう考えたのです。国家の盛衰を語るものこそが、歴史というわけです。

 

第二には、世界の変化は、政治勢力の対立・抗争によって起こる、ということです。

 

第三には、ヨーロッパとアジアは、永遠に対立する二つの勢力だということです。これは、21世紀のアジアに生きる私たちにとって、きわめて重大です。

 

ちなみに、ヘーロドトスが描いた当時のアジアとは、現在では「小アジア」と呼ばれるトルコ共和国のアナトリア半島の部分だけでした。同様に彼がヨーロッパと呼んだのは、現在のギリシアがあるほんの一部分だけで、先に述べたように、ダーダネルス海峡とボスポラス海峡を挟んだ地域だけが、ヨーロッパとアジアだったのです。

 

 

ところがその後、13世紀末から15世紀末にかけて、現代のイタリアから始まったルネサンスがアルプス山脈を越え、現代のフランスやイギリス、ドイツにまで広がっていきました。ルネサンスとは、キリスト教文明に支配された「長い中世」を脱して、ギリシア・ローマ時代に戻ろうという文芸復興運動です。

 

当時、今の西ヨーロッパに住む上流階級の人たちは、こぞってイタリアに留学し、ギリシア語もラテン語も勉強して、自分たちこそがヨーロッパ人であり、ギリシア・ローマ文明を継承した、と主張するようになりました。その後、15世紀半ばから17世紀半ばまでの大航海時代において、ヨーロッパ人は大挙して、世界に出ていきます。そして、ヘーロドトスの言った「アジア」の向こうが、ずっと陸続きであることを知るのです。

サンサルバドル島を占領するコロンブス

 

大航海時代が始まったばかりのころには、アジアとは、いわゆる現在の中近東、トルコ、シリア、イラク、イランくらいを指していたのですが、やがて、インドもアジアと呼ばれるようになりました。そしてインドからもずっと陸がつながっているので、最終的には、今の中国から日本までをもアジアと呼ぶことになりました。

 

ヨーロッパ人が「ヨーロッパでない地域」をまとめてアジアと呼んだことで、日本は幕末になって「へえー、自分たちはアジアと呼ばれているのか」と知ることになるのです。〈次回に続く〉

 

 

 

 

 

 

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