その昔、兵馬俑が発見された時、それは一体誰の物か、話題になりました。
勿論始皇帝の物だろうという意見が主だったと思いますが、
宣太后の墓の方が近いということで、宣太后のではという意見もあったそうです。
宣太后とは、始皇帝のご先祖様です。
楚から嫁いできた王后₍秦王の正室₎、についてきた人です。
BC265年没ということだけはっきり分かっているようです。
王后の息子(武王)が旦那(恵文王)の後を継いだのですが、
若くして亡くなったため、宣太后の息子がその後を継いだのです(昭襄王)。
その方が生きていた時代、秦内には異民族、義渠も住んでいました。
その騎馬民族には宣太后の旦那、恵文王も悩まされ、何度も戦っています。
息子が王になったある日、宣太后は義渠のリーダーに見初められます。
すると、何と宣太后はそのリーダーと宮殿で半同棲を始めます。
しかも子供を2人生みます。
本来なら先代王の妃、現在の王の母親なので相当な醜聞だった訳ですが、
政治的にやり手だったためか、誰も何も言えないまま、
事実婚状態が続きます。
元は騎馬民族で荒くれ者だった義渠は、
リーダーが王の義理の父親だと慢心したのか、徐々に力が衰えていきます。
その間に宣太后の息子、昭襄王は立派な王に育って行きます。
そして今だと思った時に宣太后は義渠のリーダーをパッと殺し、
弱体化した義渠を攻めて亡ぼします。
その後、義渠との間の子供の記述は全くないことから察するに、
その2人の子供も殺されたことでしょう。
勿論、宣太后自身が手をかけたりはしていないと思いますが。
長い歴史の中、すごい女性の話もよく聞くんですが、
この人ほどやり手というか、すごい話は聞かない気がします。
息子のために、秦の未来のために、自分の美貌を利用し、
相手に利用していると全く悟られることなく20年以上過ごし、
そしてある日突然、敵をパッと滅ぼしたんです。
例え利用しただけとはいえ、それなりに色々な思いもあるでしょう、
色々迷うでしょう、しかも自分の産んだ子供です、
すごい決断力だなあと思います。
この人の話はドラマにもなっています。
『芈月传(ミーユエ伝?)』というんですが。
歴史上の女性の名前は全く知られていないので、この方の本名は分からないそうです。
女性の本名を知っているのは旦那さんだけ、ということなんだそうです。
姓が芈(Mi) であることだけは確かなようです。
これ、楚の王と同じ姓で、実は屈原も同じ姓なんです。
昔は姓と氏があり、出身地や勤務地の地名も姓のように付けられるので、
しかも名前も字とか号とかあるし、
昔の人の名前、もう、何が何だか、ごちゃごちゃします。
ええと屈原は確か、与えられた領地が屈という地だったと。
ドラマでは、自分の意志に反して愛する義渠リーダーが殺されて絶叫しますが、
実際には、多分、彼女は王である息子や秦のために、
割と冷静に彼らを殺す指令を出したような気がします。
彼女はきっと、国が存続していくこと、国を守ることは、
自分の心の痛みよりずっと大事だと判断しただろうと思います。
ちなみに、多分唐の則天武后も生まれたばかりの自分の娘を殺しています。
則天武后はその罪を当時の皇后に擦り付けることにより、
自分が皇后になる礎を作ったのでした。
そしてその後、チャイナ唯一の女の皇帝へと上り詰めていきます。
赤ちゃんは突然死したという研究者もいますが、
皇后が見に来た直後に突然死……タイミングが良すぎます。
彼女達の共通点は、チャンスを必ずものにすること、
そして、一瞬たりとも迷わないことです。
まあ、まずはいいお家柄に生まれないといけないし、
その上相当な美貌でなければいけないんですがね。