ナイチャー、沖縄でかく戦かえり! ~沖縄キャバ〔?〕事情 -3ページ目

那覇での職場 最終話

2004年の梅雨が明けました


アスファルトを焼け焦がす、強い日差しの下、私は職場である整形外科に向っていました


(あー、いつになったら、キャバP11月②を書けるんだろう?)


なんてことは思うはずもなく、クルマを駐車場に止めました


受付には、院長の奥さんが座っていました


リハビリ室に行くと、助手の人が後片付けをしていました


「短い間だったけど、沖縄がこんな風だとは思わないでね…」、とちょっと淋しそうでした


大丈夫っスよ、いい体験ができたと思ってます、と答える私


すでに、もう一人の鍼灸師さんは辞表を出し、いなくなっていました


「で、これからどうするの?changfuさんは?」


「とりあえず、職安いってみて、新しいとこ、探すつもりです」、と。


職安かよ…、別の呼び方、あるだろ…



そして、6月末日


辞表を提出しました


その節は、院長に対して無礼な発言をして、すみませんでした、と非礼を詫びつつ


院長はすまなさそうな顔をしていましたが、一度も私と目は合わせませんでした


僅か、2ヵ月半、の出来事でありました

那覇での職場⑧

そして、院長室で全員を交えて、これがはじめてという「話し合い」の場が設けられました。


押し黙る参加者たち


ため息をつきつつ、なぜかその場を仕切る私


院長も色々事情があって大変だろうと思うけど、雇用者としては給料を支払うのは当然の義務でしょ、とかこれから先、院長としてはどうしたいの?、とかそういうことを言う私。


院長的には、続けていきたい、という


では、どういう風にこの現状を打破して、続けていくのか、給料はどうするのか、すでに業者さんからもクスリは売ってもらえなくなってるし、院長は欠勤するし、それでどうやっていこうというのか、それを聞かせてくれ、と言っても…


いや、私は閉院するつもりはない、の一点張り


ラチがあかない


なんか、笑いたくなってきた


言いたいこと、ヤマほどあるだろうに、長年、一緒にやってきた、看護婦さんやリハビリ助手の人は何も発言しない


実際、この話し合いの席では、私は傍観者でもいい、と思っていた


なぜなら、とりあえず、給料は支払ってもらっていたから、であります


だから、元のスタッフの人たちが溜め込んだモノを吐き出し、それについて院長がどう答えるのか、それを聞きたかったわけなのに…


だけど、誰も発言しない


院長は、閉院しないことと、ゴメンなさい、と謝るだけ…



これから数ヶ月後、私はまたも、同じような場面に遭遇するのです


そして、その時も、ほとんど状況は同じだったのですね


(次回、那覇の職場編 最終話です)



那覇での職場⑦

今日も院長、来ないね、と看護婦さん


でも、自分、朝、院長、見ましたよ、と私


驚く、スタッフ。だったら、屋上に院長の別室があるから、そこにいるんだ、という話になったのですが、いつも屋上にはカギがかかっていて、院長以外は入れなくなってるんですね。


ダメ元で屋上に上がる、鍼灸師コンビ


ドアが開いている!


奥からはTVの音が聞こえる


恐る恐る、ドアを開けてみる


眼前に広がる光景に我々は眼を疑いました


カラになった酒のビンや、食べ残しの食器類


そして、畳の上に大の字になってイビキを書いてる院長の姿


”ブチーン”、何かがキレました


「テメェ、何やってんだ!起きろ、オラァ」


滅多に怒りを表すことはない私ですが、この時ばかりは違いました


「あんた、院長だろ?従業員のこと、考えてんのかよ!」、と


急に怒鳴られて、何が起こっているのか、院長はすぐには事態をつかめないてないようでした


「顔洗って、着替えて、下に降りてこいよ。話し合い、するぞ」


何様なんでしょうか、私は…


(続く)



那覇での職場⑥

開店休業とは、まさにこういう状況を指すんだろうなぁ、と思いましたね。

ある日、病院の電話が滞納ということで止められました。

病院の電話が止められる…、異常事態ですわな

院長が欠勤でも、いちおう、病院は開ける

で、患者さんは来る

でも、診療はできない

患者さんは怒る

「バス代払って来てるんだ、治療くらいしろっ!」、と。

一人、取り残された新卒の受付のコは唇をかみ締め、悔し涙を流す

たまに、院長が出勤した日は、なにげに大盛況

ということで、受付に我々も回される

カルテをまごまご探していると、受付のコが怒る…、仕方ないことです。

そして、再び、院長は来なくなる

もはや、リハビリ(助手)の人も、受付のコも限界

今月で辞表を出すという、当然ではあるが…

さて、我ら二人はどうすればいいのでしょう?

一応、遅れたとはいえ、給料は支払ってもらっている

が、この有様では続けていくことはできない

院長が不在なのに、病院を開けているのも、何かトラブルがあった場合、ヤバいことになってしまう

とある日

ちょっと早めに職場にいくと、院長の姿があった

すでに4日間、欠勤していた院長であったが、今日は出るのかな、と

そして、開院の時間

院長は来ない…

(続く)



那覇での職場⑤

一応、我々と同じように、誓約書というか念書はもらってきたようでした。


ただ、支払ってもらえる可能性はほとんどない、ということも分っているようでした。


6月になり、まず、レントゲン技師兼バス運転手さんが辞めました。


これで、週2回、自力で来れない患者さんたちを迎えに行くことができなくなりました。


ひの事態に慌てたのは、もちろん、院長本人でした。


日雇いでバス運転手を雇ったものの、3度目くらいからは、院長が不在がちになり、支払いを怠ったため、この運転手さんも辞めました。


そして、次に、リハビリ(助手)の一人が辞めました。


リハビリに来る患者さんは少なくはありません。だから、一人で全部やろうとすると、かなり大変なこととなってしまうのですね。かといって、我々、鍼灸師にリハビリはできません…。


そうこういってるうちに、先にも書いたように、院長が不在がちになりました。


最初は、遅刻・早退程度だったのですが、6月の半ばくらいからは、目に見えて欠勤の数が増えてきたんですね。欠勤ということを前もって知らされていれば、対応のしようもあるというものなのですが、それを知らされてない私たち、特に受付の2人は悲惨な状況となっていました。


一人のコは3~4年、ここで働いてるコでしたが、もう一人のコは自分たちより、ちょっと早くここに就職したばかりの、高校を出たばかりの新卒のコだったんですね。そして、このコたちには一度も給料が支払われていない…。


新卒のコにしてみたら、自分よりも遅く入ったくせに、2度も給料をもらった我々二人が憎くてしょうがなかったことと思います。口もきいてくれませんでしたから…。


そして、ついに、元からいた受付のコも辞めることになってしまったんですね…。


残ったのは、


看護婦さん、一人


リハビリ(助手)、一人


受付、一人


鍼灸マッサージ師、二人


院長(欠勤中)、一人


もはや、破綻、してますが…。

那覇での職場④

5月、4月分の給料日


私ともう一人鍼灸師さんには、支払われました。実働日数が少なかったからかもしれません。


しかし、他のスタッフには支払ってませんでした。


ここで、より一層、元々のスタッフと我々二人にはミゾが深まることになります


看護婦さんを筆頭に、他のスタッフは血相変えて、院長に、なんであの二人には払ったのに、私たちには払ってくれないんですか?、と言いに行きました。


ここがポイント


怒鳴り込みに行った、ではないんです


やはり、古くから一緒にこの病院で働いてきたのか、強い態度で院長にのぞめないんですね。


院長には、これを見透かされていたんだと思います。適当に答え、ノラリクラーリとはぐらかしていましたから。


5月、新参者の私たちも一ヶ月、フルに働きました。


そして、6月になり、5月分の給料日支払いの日がやってきました。


事務所に取りに行きました


院長の返事は、まだ明細ができてないので、あと数日待ってくれ、ということでした


分りました、と我々二人


待ちますが、この日までには必ず支払ってください、と「誓約書」と「実印」をもらいました。


ちょっと支払いが遅れただけで、誓約書はいかがなものか、と思われるかもしれませんが、こういう実情であれば、致し方ないと思うんですね。


そして、約束の日


我々、二人には給料が支払われました


しかし、他のスタッフには今まで同様、支払われませんでした


他のスタッフの怒りは閾値を越えたのでありました


(続く)

那覇での職場③

もともと、この病院は、10年位前までは沖縄でも、トップにランクするくらい活気があった病院だったということです。先生の手術が上手で、病院の雰囲気も良い、ということで。


が、先生のウデが落ちたのか、拡張しすぎたのか、ハッキリとした原因は分らないけど、急激に患者さんが減ってきて、2003年の後半、11月くらいからは、スタッフの給料支払いが遅れるようになり、年が明けてからは一度も給料が支払われていない、ということでした。


驚き、ですよね…


で、辞めていったスタップの中には、今、裁判を検討しているという…。


にわかには信じ難い話ではありました


それでも、患者さんはやってきます


週に二回、バスで、自力で来れない患者さんを迎えに行き、病院に連れてきてたりもしてました。


すでに4~5ヶ月、給料が支払われてもいないのに関わらず、どうしてここで働いているのだろう、素朴なギモンが沸きました。答えとしては、患者さんに迷惑がかかるから、というものでしたが…。確かに、それはそうなのだろうが、それでは自分の生活はどうなるのかなぁ、と。貯金を食いつぶして生活しているのか、と。


とりあえず、私ともう一人の鍼灸師さんは一ヶ月、働いてみることにしました。


果たして、給料は出るのでしょうか?


(続く)

那覇での職場②

その整形外科では、同じ時期に私と、もう一人同じように鍼灸マッサージ師を雇っていました。


5階建てで、個人経営としてはかなり大きな部類に入る整形外科でした。


しかし…


看護婦さんは、一人


リハビリ(助手)が、二人


レントゲン技師兼バス運転手が、一人


受付の人が、二人


そして、


鍼灸マッサージ師が、私ともう一人の、計2名


で、院長先生


あ、あのー、看護婦さんが「一人」というのは、いったいどういうことなんでしょうか…?


確かに、面接に行ったとき、院内を案内されたとき、看護婦さんを含め、スタッフの皆さんのよそよそしかった。それは、自分がナイチから来たからだ、と思っていたんですが…。


働きはじめてからも、なんか元のスタッフの人たちとギクシャクしてました。


10歳ほど年上の、同時期に入った鍼灸マッサージの人も、そう感じてました。なんか、ヘンなとこだね、と。


そして、ある日、看護婦さんとリハビリ助手の二人がやってきて、こう尋ねられました


「あなたたち、ここがどういうことになってるか、本当のこと、知ってるの?」、と。


へぇ?、て感じですよね。


そして、驚くべき事実を知らされたのでした!


(続く)

那覇での職場①

2004年4月に、彼女以外には、誰も知り合いがいない沖縄にやってきたわけですね。


とりあえず、まずしたことは就職活動でした。


沖縄入りした、その日に彼女の実家に行き、簡単にではありますが、挨拶はしてたんですげとね。


彼女にしてみれば、この場で結婚の挨拶をしてくれるのかも、という期待もあったのかもしれません。


ただ、職が決まっていない私としては、それはできなかったですね。


筋を通したいというか、まぁ、経済的にもこちらで十分やっていけるような状況になって、改めてご挨拶させていただく、みたいな、そんな感じだったかな。


彼女も含めて、相手の家族としては、ちょっと不満だったのかもしれません。


とくに、沖縄ということなのか、家族ぐるみで助け合い、というのが色濃くある土地では、婚約してからでも、結婚してからでも、ということなのかもしれません。


カタチとしては、彼女についてきたようなものなのですが、就職や経済的なことは自分で、キチっとしたかったし。特に、優柔不断な性格の私だと、いつの間にか、あれ、なんでこーなっちゃんてんの?、という結果にもなりえますからね…。


で、就活の結果、ある整形外科に勤めることになったんですね。


その職場が、そんなところだとはツユ、知らず…。



キブ・アンド・テイク

ナイチャーである私が、なぜに沖縄に来てるのか、てことですよね。


鹿児島に居るとき、つきあってたコがたまたま沖縄のコで、そのコが沖縄に戻るから、ということで、まぁ、一応は結婚を前提として、私もついて行った、と簡単に書くと、そういうことなのですね。


あまり、違うとこに引っ越す、とか、違うとこで生活する、とかいうことに、深く考えない、というか、結構、あっさり決めたりするんですね。じゃないと、中国で3年半は住めませんから…。


この彼女とのことは、また別項に譲るとして、仕事のことを書いていきましょう。


「キャバP 11月①」 のとこでも書いたのですが、私の仕事と、キャバPとではギブアンドテイクが成立しているんですね。


私の職種は「鍼灸マッサージ」です。


できれば、伏せておきたいことだったんですが、話の流れ上、書くことになってしまいましたね…。


ママは、私がこの職場に来る前からの常連さんでした。娘の「恭子」ちゃんも、ね。


こういう夜の世界を生業としている人たちは、肩こりやら腰痛、結構、ヒドいですよ。特に頚凝り、は。


マッサージに来るときは、もちろん普段着なので、ママもその辺のオバちゃん(失礼!)と何ら変わらなかったり、娘の恭子ちゃんも、普通の10代のオンナのコなんだけど、店で見ると、大変身、してますからね…。


ママは、店のオンナのコ以外にも、色んな人を紹介してくれてました。


特に、自分がこの年の12月に「開業」してから、ママの紹介というのは、本当に助かったんですね