世間では語られない『優しさ』だけではやっていけない理由 | ASDの中年男性の人生の生き方。ときどき投資。

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シェアハウスで社会不適合者たちと暮らしています。発達障害(ASD)だから社会に適応できません。どうやら唯一トレードが好きだから、ひたすらトレードしてるかなぁ。

最近は大自然の中で農作業が主です。生きることは難しい。

「人に優しくしたい」

 

この気持ちは、どんな悪人にも少なからずあるのではないでしょうか(逆にどんな善人にでも悪さしたい気持ちは少なからずあるでしょう。)

 

私は生まれながらにして、常にこの気持ちを抱いている感覚がありました。

 

だけど「優しくする」にも脳の機能が備わっていなければできないというのが今回の記事です。

 

これは世間では語られない私の経験談から話しますが…

 

 

 

よく世間では「優しさだけでは生きていけない」みたいな言葉を耳にします。

 

これには大人になるにつれて、現実世界を知っていくにつれてキレイゴトでは生きていけないみたいな意味合いを含んでいるかと思います。

 

「人間関係のしがらみによって、個人的には手助けしたいけど今自分にはできない」

 

「家族を養うことが優先されるため、他人は二の次になってしまう」

 

「自分の地位が失われるから支援できない」

 

「他人を助ける暇なんてない。自分のことで精一杯だ。」

 

「アイツ好かない。助けたくない。関わりたくもない。顔すら見たくない。」

 

などなど枚挙に暇がないほどです。

 

「いつから自分はこんな汚れた大人になってしまったんだろう…」

 

もしかしたら自分自身が汚れた立場になってしまって、こういう風に自分を嘆いている人もいるかもしれません。

 

世の中で語られるような「優しさ」を発揮できない理由はこんな感じでしょう。

 

 

 

しかし私は障害者であり、障害者の目線ならではの「優しさ」を表現できない理由はあまり聞かれません。

 

(たぶん障害者は共感していただけるかと。特に発達障害者には。)

 

障害者が優しさを発揮できない理由。

 

 

 

それは能力的に「優しさ」を表現できるほどの技術がない、というものです。

 

 

 

もちろん「優しさ」にはいろんな形態があります。

 

ただ黙って話を聴く。

 

一緒に寄り添ってやる。

 

などなど。

 

 

私が言う「優しさ」とは、「自分から能動的にアクションを取ることの能力はない」という意味で解釈してもよいかと思います。

 

自分から動くと、それは“有害事象”に発展してしまい、事態を悪化させてしまう可能性があるからです。

 

 

 

良かれと思ってやったことが、相手には大きなお世話だった。というケース。

 

たとえば、、、

 

目の前の人がモノを落とした。

本人はそれに気づいている。

本人は違う作業に取り組んでいて、あと5秒で作業が終わるから、終わったら拾おうとしている。

モノが落ちたことに気付いた自分が拾ってやって相手に渡す。

しかし、その行為が相手のパーソナルスペースを侵害してしまい迷惑で不快にさせた。

 

 

ほかには……

 

 

◯◯をやる。

この◯◯は誰にでもできる。

しかし自分には◯◯ができない。

なぜなら“手先が不器用”だから。

不器用な自分が◯◯をしたら、問題無く目的を達成できない。なにかしら出来の悪い結果になる。

しかし周りからの「お前がやれ」という圧力で、それを拒否できない。

自分がやるしかない。

結果……やらないほうが良かった。

怒られる。責められる。

 

他にもありますがキリがありません。

 

 

 

こういうことが発達障害者にはあるある話で、じゃあ一体何をすればいいのさ?

 

答えは簡単で「社会と接点を持たない(距離を置く)」がシンプルかつ最適解かと。

 

これは健常者には理解ができない感覚だと思います。でも恐ろしいことに、本当に我々発達障害者はこんな一般的には簡単かと思われることが非常に困難です。

 

しかし発達障害者支援の関係者もこれを理解している人は少なく、『支援=就労を継続させる』ほうへアプローチするケースが多すぎます。

 

「そういうことじゃないんだけどな…」

 

発達障害者の意見として、肌感覚ではそう思っているように感じます。

 

ぶっちゃけ資本主義社会では生産性や効率性の高い人材を必要としており、“無能な人”は現場にいたら邪魔ですよね。いくら無能な人がヤル気があっても、やらかしてしまいますから。その人に教育を費やす時間があったら仕事ができる人に仕事を割り振りしたほうが効果的ですし。これは雇用主、従業員、障害者…一体誰にメリットありますかね?

 

(あくまで資本主義を前提にした話でもの言ってますよ。)

 

 

 

発達障害者でいえば、ほとんどの人が社員から邪魔者扱いされて居場所をなくして、泣く泣く仕事を辞める。

 

だから当事者でさんざん痛い目を経験して二次障害を抱えまくった私の思いとしては

 

「無理して働かなくていいやんけ…」

 

ということに尽きます。

 

どんどん生活保護は受給していいし、もし改憲されて憲法第25条の生存権がなくなったら、それはそのときで何とかするしかないと思います。

 

でも憲法で保障されてる限りはどんどん生活保護は利用していい。じゃなきゃガチで生きていけない人種ですから。

 

働くことは社会貢献であると、世間では言われます。

 

しかし資本主義で定義されている社会貢献ですら、発達障害者には困難。不可能に近い人も多い。

 

働けているって、本当にラッキーな人だと思います。

 

キレイゴトはキレイゴトで済まされずに生きている障害者は腐るほどいますしね。

 

 

 

…ということで、私は基本的には人と関わるのは避けますし、困っていそうな人がいたら言語分野だけは長けている部類なので教えたりはしますが、動作が伴う手助けはしません。

 

それが賢明です。

 

道行く途中で転倒した人がいたら、敢えて無視することもありました(助けたい気持ちはありますが)。

 

それが事態を悪化させないためには仕方ない行動なのです。

 

私なりの「優しさ」です。

 

 

 

人に優しくしたいけど、脳の機能が異常なので当たり前ができない。

 

今日も私は目に見える困っている人を無視して自分のためだけ(それが結果的に他人のためになる)に生きると誓う中年のオッサンの物語でした〜〜〜。

 

ま、仕方ないよね。