「坐禅」
禅宗で最も大切とされる修行
只管打坐
ただ、ただ、座り 自己と向き合う
しかしただ座るといっても厳格なお作法がある
服装、禅堂への入り方、座る前、座り方、座った後、退出
すべてにおいて一連の作法がある
服装は袴を着用した
上下グレーの、永平寺と刺繍された袴だ
作務(掃除)、就寝以外はすべて袴着用である
基本動作は、「合掌」「叉手」
詳しいお作法はこちらを参考に
https://www.sotozen-net.or.jp/propagation/zazentop/saho
読めただろうか?
文字にすると億劫なほどお作法があったのだが
この工程がなければ坐禅は成り立たない
構えができていなければ、バットを振ってもボールは当たらないということだ
最初は違ったところで礼をしたり逆回りだったりと
いい大人が間違いを繰り返すのだが
人間は学ぶ生き物で、3回を過ぎたあたりから体が勝手に動いてくれるようになる
間違えても、雲水の方が優しく静かに囁くように教えてくれる
あまりにも優しいので、なんだか間違えたくなった←
お作法を何度も何度も体に覚えさせて
坐禅に集中できるようにする
坐禅は1回約40分
線香の火が消える時間だと言われているそうだ
結果、坐禅は4日間で18回行った
時間にすると12時間
食事の時間を省くと9時間20分、自己と向き合っていた
はじめは5分とできなかった
永平寺に行く前から、「雲堂」という坐禅アプリを取って
家で試みていたが
まったくと言っていいほど集中力にかけていた
外の音が気になり、仕事のことが気になり、カードの返済が気になり
横山先生の言葉を借りれば、心意識のハンドルを握りすぎて
自己に振り回されていた
浮かんできた考えを、解放するとはどういうことなのだろう?
私は坐禅に期待した
坐禅をすれば、何かが得られると
1日目はそのことをずっと考えていた
いつも通り雑念は浮かぶ、浮かぶ、また浮かぶ
新しい仕事はうまくいくだろうか、休んでいる間の仕事にミスはないだろうか
貯金は大丈夫なのだろうか、過去の男性とはなぜうまくいかなかったのだろうか
結婚って何なんだろうか、出産、子育てって私にできるんだろうか
親が病気になったらどうしようか、私の夢はこれでいいのだろうか
あれを買わなくてはいけなかった、次の支払いはいくらだっただろうか
どんな女性に、なっていきたいのだろうか・・・
こんなのほんの一部で、こんな無限の考えを解放するとは、どういうことなのか?
ところがそれより、解放云々より、もっと考えなければいけないことが起こった
足が、痛すぎる
しびれたとか、痛いなんてもんじゃない
感覚が、ない
私の足は取れてしまったのか?
宇宙に消えてしまったのか?
とにかく今すぐ心意識よりも先にこの足の感覚を解放したい
だが、できぬ、それが修行
私は特に体が恐ろしく硬いので、そもそも坐禅を組むことすら困難だった
結跏趺坐(どちらの踵もももの上に置く)は明らかにできなかったので
半跏府座(片方だけももの上に置く)ことにしたのだが
両方だろうが半分だろうが、しびれの辛さはきっと同じだ
足との闘い
そうして1日目は幕を閉じる。
2日目
己のパターンがよく分かったので、どう解決していくかを考えた
心が、うるさい
次々と湧き出やがって、解放するのが大変じゃないか
このままではらちが明かないので
いったん、外に耳を傾けた
永平寺はなんとも静かである
鳥の声、雨の音、風の音、濁りなくそのまま聞こえる
ああ、ここは福井県、山奥の永平寺じゃないか
何をそんなに急いで、考えに答えを出さねばならんのだ
小鳥が美しく鳴くのを聞くことより、優先することが今あるのか
家にある禅の本にこんな一説があったのを思い出した
「花は、誰かのために咲くのではない」
花は見る人にさまざまなものを与えてくれる
大輪の花に大きな勇気と希望を感じ、道端に可憐に咲く花には慎ましき姿に励まされる
しかし、花にはそんなことにはみじんも頓着することなく
ただ、咲いているだけ
その命を精一杯に現じている
今日はだるいから手を抜いて咲くかとか
今日は花見客がたくさんいるから艶やかに咲くとか
そんなことは一切ない
花は咲いても見てくれとは言わない
私が頑張るのは、人に見てもらうため?
懸命に生きているだけで素晴らしいことであるのに
それ以上に何の功徳を得ようとしているのか
生きることに、元々意味なんてない
そう気が付いた時、私の心は一気に晴れた
生きる意味を探していた 初めからあったかのように
でも、生きることに意味はない
だからじゃあ怠けて生きるということではない
懸命に、自然に、生きていることこそが
自分がどう生きているかだけが、自分の価値になる
坐禅自体にも何の意味もない
坐禅をし続ければ功徳があるわけではない
我欲や執着が入り込む余地がない
無効徳の行為をすることが、清々しく思えたらいいのだ
そうたどり着いた
坐禅で私が教わったことのひとつだ
祖母が重度の認知症で誰のこともわからなり
病院のベットで寝たきりになったとき
生きる意味を考えたことがあった
父はその時こう言った
「ただ、生きていてくれるだけでいいんだ」
その言葉の意味が、ようやくわかった
坐禅の教え 完
