土津神社は、磐椅神社の西側近くにありますが、磐椅神社の末社という位置付けのようです。

 祀られているのは、土津神霊こと初代会津藩主・保科正之公

 下記リンクを読めば、保科正之は、一地方の藩主というより、国政の場において、多くの民のために善政を施した方であることが、よくわかります。

  《参照》 『保科正之』 中村彰彦 (中央公論社)

ご祭神 | 土津神社【公式】 には、保科正之公について、以下のように書かれています。

二代将軍・秀忠公のご落胤、
三代将軍・家光公の異母弟。
幼名「幸松」。母は秀忠公の乳母の侍女・お静。
秀忠公の正室・お江の方は、非常に嫉妬深く、秀忠公に側室を持つことを認めなかったため、お静の方は密かに男子を産み、武田信玄公の娘の信松院や見性院に匿われて育ちました。
7歳で信州高遠城主保科正光の養子になり、21歳で高遠3万石、26歳で山形最上20万石、33歳のときに会津23万石の城主になりました。

それから會津藩は、三代藩主正容から松平姓となり幕末まで続きました。

境内には、亀石の上に乗った四角い大きな「土津神社霊神之碑」があり、全面に文字が彫られています。

由緒 | 土津神社【公式】 には、以下のように書かれています。

土津」は、「万物の理(神道の奥義)を究められた会津藩主」という意味です。
正之公は、晩年に至るまで神道を尊信し、吉川惟足を師としてもっぱら吉田神道(卜部神道)の伝を学び、道の奥義を極められ、寛文11年(1671年)に吉川惟足から霊号を「土津」と奉られました。
五行思想では「木・火・土・金・水」から万物がなると考えます。その中でも「土(つち、はに)」は、​​宇宙構成要素の根本であって、土から生まれ土に還ると言うように万物の始めと終わりを象徴するもので、その理を体得したことから、會津の「津(つ)=會津藩主」と合わせて「土津」と名付けられました。

👆 拝殿 👇

👇 本殿 👇

本殿の両側には、歴代会津藩主の皆さんのお社が並んでいました。

 

 

 

<了>

 

 

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