4巻 より

 

 第5巻の副題は「ギンノクニ」。ギンは、涙で世界が崩壊してゆく時の色。あるいは、介錯に際し、振り上げられ天を斬った一閃の煌めき。

 

 

【壊れたままの閂】
「ねぇ、護良さま。何度か言ったけれど、ここから逃げましょう」
瞬時に彼の顔から、笑みが外れるのを見る。
「閂が壊れているのよ。お願いだから逃げましょう」
彼が首を縦に振れば、簡単に逃げ出せる。
そのことは、ここに来てすぐに気づいた。
恐らく直義様も知っていると思うのに、閂を直そうともしないし、彼を別の場所に移すわけでもなく、見張りを増やすわけでもない。
まるで逃げてくれと言わんばかりの場所。
彼だって、私が気づく前にすでに気づいていたはず。
「私はここから出ない」
彼ははっきりとそう言った。(p.37)

雛鶴の再三の勧めに対して、大塔宮は、「父の許しがない限り、ここから出ない」と言う。
“ここ”というのは、現在の鎌倉宮で、当時は、東光寺という寺院だったらしい。
唆されて息子を配流した父と、そんな父からの配流撤回がない限りそれに従うという忠義なというかタコな息子の大塔宮。
ところで、「閂が壊れていた」というのが、過去世の記憶を有する著者が見ていた事実であるなら、この件は、ますますややこしい。
足利高氏は、既にこの時、後醍醐帝から『尊』の一字を賜り足利尊氏となり、足利家は、武家から公家になっていた。京から離れた鎌倉とはいえ、ここを治めていた足利直義が、仮に、兄・尊氏の帝に反旗を翻すというその後の行動計画を知っていて、しかも鬼のような魂を有する者であるならば、大塔宮とこの時雛鶴のお腹にいた子は、未然の裡に消しておくというのが筋というもの。ところが、直義は、閂を壊したままにすることで、暗に大塔宮と雛鶴に逃亡を勧めていた。
なぜ? 足利直義もまた雛鶴に恋していたのか・・・もしれない。
チャンちゃんが直義だったら、直義と同じことをしていただろう。全ての人に覇権意欲はあるものと思うのは、人にはそれぞれに個性があるということを弁えないウルトラタコな思い込み。ましてや、大塔宮は、親王時代に出家しているのである。大塔宮は根本的に覇者になることを望まない人物。故に、チャンちゃんが直義だったら、暗に閂を壊しておいても出て行かないのなら、大塔宮に直談判して、「雛鶴姫と共に、ここを出でよ」と言っていたかもしれない。しかし、タコな大塔宮は、それでも応じなかっただろう。タコはどこまで行ってもタコなものである。
おそらく、大塔宮の心の深層は、父に対する忠義を重んずることにあったのではなく、アカノクニ(戦乱の時代)に生きることの辛さを忌避していたのではないだろうか。

10歳の時から比叡山延暦寺で生活していたら、そうなるだろう。比叡山延暦寺 の開祖・最澄の名が意味するのは、最も澄んだ魂の人。ここで少年期を過ごしていたらその霊流を受けて当然。であれば、戦を積み重ねるほどに厭離穢土に傾斜する。勝つほどに痛むものなのである。人の命を憂うる優しさは、戦乱の時代を変革するための仕組み人としては失格である。その役割は、最初から足利尊氏に割り当てられていた。
千鶴子が鎌倉時代に引き戻されて大塔宮に再会しても、大塔宮はこの轍から出られない。
大塔宮が現代に来て千鶴子に再会できたら、大塔宮は救済されるだろう。
大塔宮が生きていたこの時代は、どうしたって「優しい国」ではないのだから。

 

 

【杜甫の詩:江頭に哀しむ】
あまり有名じゃないけれど、杜甫の詩の中で一番情緒に溢れていて、ロマンチック。
「・・・江頭に哀しむ?」
こくりと頷いて、読み上げる。

小陵の野老は声を呑んで哭し
春日 潜びやかに行く 曲江の曲
・・・中略・・・
昭陽殿裏 第一の人
輦を同じくし君に随いて君側に侍す
輦前の才人は弓箭を帯び
白馬は嚼齧す 黄金の勒(くつばみ)
身を翻し天に向かいて仰いで雲を射れば、
一箭 正に落とす 双飛の翼 

「杜甫はね、玄宗皇帝と楊貴妃と同時代の人間だよ。これも2人のことを詠った詩」 (p.94)
杜甫のこの詩は知らなかったので、書き出しておいた。
下の6行を書き下せば、
昭陽殿の中で一番寵愛を受けた方は、
皇帝と共に車に乗り、お傍から離れることはなかった。
二人の乗った車の前を先導する女官たちは、弓と矢を腰につけ、
その車を引く白馬は、黄金の轡を噛んでいた。
身をのけぞらせ、天に向かって雲を射ると、
その一矢で、比翼の鳥が射ち落されたのだった。

幻想世界は、比翼の鳥を射落として終わる。
そこで終幕。 (p.95)

 

 

【大塔宮殺害に関する「太平記」の記述】
700年後まで伝わる歴史は、
北条時之が挙兵して鎌倉まで押し寄せ、直義は防戦するが結局は負けて鎌倉を出ることになる。
その際に、大塔宮様の処遇をどうしらいいかわからなくなって、直義は家臣の淵辺義博に命じて、大塔宮様を殺す。
それが太平記に乗っている記述で、妥当だとされる歴史。
・・・中略・・・
どこかおかしいと、ずっと考えてきた。
その栄光が地に落ちたとしても、相手は帝の皇子。
直義の一存でその命をどうこうしようとするのはおかしい。
一歩間違えばこの決断は足利家を窮地に追いやる。勝手に帝の息子を殺したとしたら、それが原因で朝廷は足利家を朝敵とみなしてもおかしくはない。
しかも今はまだ、尊氏には朝廷に反旗を翻す意志は薄い。(p.103)

直義がこの件で、処罰を受けた形跡はない。
その痕跡はなく、この件は嘘みたいに藪の中に消えている。
それが指し示すのは、一つの答え。
直義ではなく、真の黒幕は、この人だと。 (p.106)

 

 

【書簡】
「・・・書簡を、預かって参りました」
「誰からだ・・・?」
「後醍醐帝からの書簡にございます」
それを聞いて、大塔宮様は目を見張った。
・・・中略・・・。
ばらばらと蛇腹に広がるには足りない、そっけない数行の書簡。
つまり、数秒で読める書簡。
「・・・なっっっ!!!!!」
・・・中略・・・
自害せよとの命令が書かれた書簡。(p.129-130)

太平記に記された内容について、著者は以下のように記述している。

 

 

【足利直義(ただよし)】
太平記はこのあと十何年かして書かれるものだけれど、実は直義が読んでいて、その手が加わっている。
武士は名誉と秩序を重んじる。
なのにどうして、わざわざ自分のせいで『帝の皇子』を殺したと書くのを許したのか。
太平記が成立した頃、すでに足利の御世が来ていた。
直義の地位を考えれば、簡単に書き直しさせられたはずだった。
しかも太平記を鵜呑みにするのならば、真実を知っているのは直義と淵辺義博だけだから、いくらでも改竄できる。
混乱の鎌倉で賊に襲われて死んだとしても、北条軍のせいにもできる。
それなのにそうしなかったのは、直義が大塔宮を護ったから。
あの日、俺は直義に姉ちゃんを好きでしょう? と問いかけてから、直義に囁いた。
父親に捨てられて殺される、身の毛のよだつようなおぞましい現実を、美しい悲劇に変えてくれと。
後醍醐帝に殺されたと書くよりも、足利に殺されたと書くほうが、きっと大塔宮様の名誉は護られて、だだ一人最後までお傍を離れなかった雛鶴姫の凛とした強さを皆が語り継いでくれる。
700年後の誰かの胸の内で生きる雛鶴姫と大塔宮様を、直義の手で護ってくれと囁いた。直義は、あとは全て任せておけと言った。
それが直義が示す、姉ちゃんへの愛情。
全ての罪を被って、その名を護った、直義なりの愛情。 (p.130-131)

であるなら、足利尊氏の弟、直義は、自ら罪を被るような事実無根の記述(「太平記」)を残すことまでして、歴史上の敗者・大塔宮の心根を護ったことになる。

 

 

5巻 《後編》  に続く