《前編》 より

 

【南フランスを愛した芸術家たち】
 パリからアルルへ移り住んだゴッホ、エクス・アン・プロヴァンスに生まれたセザンヌ、ピカソ、ルノワール、マティス、シャガールなど、南フランスの風土を好んだ芸術家の足跡をたどる。(p.29)
 「南仏・芸術家」で日本人が一番に思い出すのは、何と言ってもゴッホだろう。しかし、ゴッホがプロヴァンス地方(アルルとサン・レミ・ド・プロヴァンス)に住んでいたのは、僅かに2年だった。

 

 

【ゴッホ:パリ:~35歳】
 ベルギー国境に近いオランダ南部の小さな町ズンデルト。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは1853年、この町で牧師の家に生まれた。(p.30)
 プロテスタントの学校に進学するも、16歳で学業を断念。画商となって、ロンドンやパリで4年間過ごしたけれど、信仰心が募るにつれて、画商という職業に疑問を持ち始め気力の失せたゴッホはグーピル商を解雇された。
 牧師となって、ロンドン、ベルギーへ伝道に行くも、過度な情熱が反感を買い、またも失業。
 そして、坑夫のデッサンやミレーの模写をするうちに、1880年画家になることを決心。ヴィンセント27歳の夏であった。(p.31)
 オランダのテッセン、ハーグ、ヌエネンなどで習作に励み、
 父が死んだ1885年の暮れ、ルーベンスにひかれてベルギーのアントワープへ発ち、王立の美術学校に学ぶ。ここで日本の浮世絵に初めて出会った。そして、弟テオを頼って、パリへ。モンマルトルのアパルトマンに同居し、「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」や「酒場」・・・中略・・・などを描いた。
パリ時代のゴッホはロートレックやベルナールと親交を深め、印象派の画家たちと知り合う。伝統的画法を打破した印象派の巨匠ピサロや、革新的画法のゴーガンとも画商だった弟を通じて親しくなり、感性を刺激されたゴッホは2年間のパリ滞在で200点以上の油絵を制作している。(p.31)

 

 

 

【ゴッホ:南仏へ:35歳~】
 1888年冬の暗いパリを脱出、日本と風土が似ているのではないかという期待を胸に、光を求めて南仏アルルへやって来た。
 目も眩むような強烈な日差しと、豊かな色彩に溢れるプロヴァンス地方のアルル。心身ともに疲れていたゴッホは、次第にこの地で健康を回復し、「ひまわり」や「黄色い家」をはじめ情熱のままに名画を生み出すことになる。その作品は1年のあいだに200点以上におよんでいる。・・・中略・・・。
 ゴッホは、空気が澄んで光踊るアルルの町で、長年の夢だった芸術家たちのコロニーを実現しようと決意する。黄色い家を借りたのもそのためだった。(p.32)
 ゴッホの呼びかけに応じて、ゴーガンがアルルにやって来た。
 こうして2人の共同生活が始まった。このときゴッホ35歳、ゴーガン40歳。ゴッホにとって、自由奔放でリーダー的素質にとんだゴーガンは、人生と芸術の先輩として憧れの人であった。・・・中略・・・。しかし、平穏なときは長くは続かなかった。強烈な個性と個性はしばしばぶつかりあい、すぐに激しい論争になる。ゴッホの言葉を借りれば、「放電したあとの電池のように頭がくたくたになる」まで、それは続いていくのだった。
 そして不幸な事件は12月23日に起こった。・・・中略・・・。この夜ゴッホは極度の興奮状態から突然カミソリを手に、ゴーガンを襲おうとしたがはたせず、ゴッホはそのカミソリで自分の耳を切り落とす。
 こうしてゴーガンはアルルを去り、ゴッホは病院に収容されてしまった。(p.33)
 南仏で迎える2度目の春、ゴッホは、アルルから北東へ25km、静かな高原の町、サン・レミ・ド・プロヴァンスに移住した。
 1889年5月、狂気に陥ることを恐れて、自らサン・レミの精神病院に入院したのだった。ここで1年ほど闘病生活をおくるが、病室の他に、絵を描く部屋を用意してもらったゴッホは、・・・中略・・・すさまじい勢いで制作に取り組み、さらに新しい独自の画風に到達。およそ200点もの作品を描きあげた。(p.34)

 

 

【色彩の変化、糸杉とミストラル】
 黄金色に燃えていたアルルのゴッホのパレットは、サン・レミではオリーブ色へと移っていく。
 この町でゴッホの心をとらえたのは糸杉。エジプトのオベリスクのようだと、弟テオへの手紙にも書き、糸杉のある風景を多数描いている。・・・中略・・・。
 プロヴァンスでは名物のミストラルが吹くと、糸杉が燃えさかる炎のようにざわめいて見える。サン・レミのゴッホの胸の内には、常にミストラルのような激しい嵐が吹き荒れていたのであろう。(p.34)

 

 

【ゴッホ:オーヴェル・シュル・オワーズに死す】
 弟テオのいるパリ近郊へ転地を望んで、1890年5月、オーヴェル・シュル・オワーズの駅に降り立った。パリの北約30km、オワーズ川沿いの小さな田舎町は、若々しい緑が燃え、リラの香りに満たされていた。
 この町でゴッホは駅近くのカフェ・ラヴーに宿を取り、精神科医ガジェの世話を受けながら、「オーヴェールの教会」「町役場」を描いた。そして黄金色に波打つ7月の麦畑「カラスの飛ぶ麦畑」を最後の作品に、ピストル自殺を遂げる。生前に売れた絵はたった1点だった。兄を支え続けたテオも、後を追うように病死する。(p.34)
 カフェ・ラヴーはメゾン・ド・ゴッホと名を変え、ゴッホが借りた屋根裏部屋は当時のままに保存されているという。

 

 

 

【セザンヌ:現代絵画の父】
 セザンヌは1839年、南仏のプロヴァンス地方にある小さな町エクス・アン・プロヴァンスで生まれた。(p.35)
 父、ルイ・オーギュストは帽子製造業から成功して銀行を所有するようになった立志伝中の人物。母のエリザベートは父の愛人で、二人が正式に結婚したのはセザールが5歳の時。古い保守的な街エクスでは、私生児であることが心に重くのしかかったらしい。

 

 

 

【パリに行くも・・・】
 セザンヌの画家への夢をかき立てたのは、ブルボン中学時代の親友のエミール・ゾラである。詩人を志すゾラはすでにパリで働きながら学んでおり、パリのすばらしさ、華やかさをセザンヌに頻繁に手紙で知らせてきた。(p.35)
 銀行家を目指していたセザンヌはゾラに啓発されて22歳の時パリにでることを決心。しかし田舎育ちのセザンヌにとって都会生活は快適なものではなく、わずか半年でエクスに戻ってしまう。
 パリから自信を失って帰って来た息子を見かねた父は、エクス郊外に購入した大邸宅ジャス・ド・ブファンに壁画を描くことを許した。その時描いたのは「四季」と題されたアングル風の絵。セザンヌはこの別荘を愛し、後にアトリエをつくったりもした。

 

 

【作風の変化】
 20歳代のセザンヌの絵は、比較的塗りが厚く、濃く暗い色を多用している。絵の題材も死体、殺人、強姦などが多く、その時代としては考えられない内容だ。・・・中略・・・。
 そんなセザンヌが30歳の時、生涯でただ一度の真剣な恋をした。相手はお針子でモデルのオルタンス・フィケ。19歳。・・・中略・・・。これ以後彼の絵は驚くほど変化する。外に向かって心を開いたセザンヌは、ほかの印象派の画家たちと同じように、次第に野外に出て風景画を描き始めたのだ。
 私生児として生まれたセザンヌは、オルタンスとの間にやはり私生児ポールをもうけた。
 セザンヌは、パリ郊外に住むピサロから印象派の技法を学び、彼の芸術に大きな影響を受けている。

 

 

【サント・ヴィクトワール山】
 彼が初期から晩年にいたるまで取り組み続けたのが、サント・ヴィクトワール山を描くことである。(p.37)
 サント・ヴィクトワール山はエクスの東15km程のところにある標高約1000mの一本の木も生えていない岩山。
 1886年は、セザンヌにとって忘れられない年となった。中学時代からの親友ゾラが、世に認められないまま自殺で終わる画家を描いた小説『作品』を書いたことで、二人の友情は終わる。オルタンスと正式に結婚。父、オーギュストの死。

 

 

【印象派からキュビズムへの橋渡しをしたセザンヌの絵】
 晩年の作品では、・・・中略・・・すこしずつデフォルメが行われるようになった。たとえば「サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」(1904-1906)では、写生した地点からサント・ヴィクトワール山は見えないにもかかわらず、同じ視点で描かれている。静物画ではそこに置かれた物を見る視点がひとつひとつ異なり、ピカソたちは、これらの絵からキュビズムの方法論を確立した。(p.38)
 1895年、パリで初めてセザンヌの個展が開かれた。個展は必ずしも成功したとは言えなかったが、モネやルノワール、ピサロたちを驚嘆させ、誰よりもまず彼らがセザンヌの作品のコレクターとなった。この個展をきっかけにセザンヌは徐々に認められていった。
 モーリス・ドニは、ゴーガン所蔵のセザンヌの作品が画面中央のイーゼルに架けられ、周りに画家たちが集っている「ゼザンヌ礼賛」(オルセー美術館所蔵)を描いている。
 セザンヌは、1906年、67歳で亡くなった。

 

 

 

【ピカソ】
 1881年南スペインのマラガで男の子が産声を上げた。父は美術教師ホセ・ルイス・フラスコ。・・・中略・・・。父のルイスは息子の才能を見て絵具と絵筆を与え、絵の手ほどきをしたあと自らは絵の道を断念したといわれる。(p.40)
 1895年、ピカソ15歳。父の転勤に伴い、バルセロナへ移住。
 1900年、ピカソ20歳。パリに定住。
 1907年、ピカソ27歳。セザンヌ回顧展で、晩年のセザンヌの絵に衝撃を受けたピカソは新しい方向性を模索し始める。すでに「アヴィニョンの娘たち」は完成していたが、絵は完全にはまとまっていなかった。ピカソはセザンヌによって、伝統的手法の打破とキュビズム構築へと駆り立てられた。
 キュビズムとは、それまでの具象絵画が一つの視点に基づいて描かれていたのに対し、いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収める画法。ルネサンス以来の一点透視図法を否定した。

 

 

 

【ゲルニカ】
 1936年、古郷スペインで内乱が勃発。1937年4月28日、フランコ政権を援助するためにドイツ空軍がバスク地方の古都ゲルニカを攻撃したというニュースに驚愕したピカソは、わずかな日数で戦争の愚かさと人間の残忍さをイメージした大作「ゲルニカ」を描き上げた。(p.40)
 「ゲルニカ」もキュビズムの作品。多視点描写による不連続な線が、裂けた心・裂けた世界の象徴表現に重なり印象的な作品になっている。

 

 

【南仏で・・・】
 ピカソが南フランスに住むようになったのは、第二次大戦終結後の1946年からである。この年、ピカソは恋人のフランソワーズ・ジローと共に、古い歴史を持ったアンティーブに移住し、すぐ近くのゴルフ・ジュアンに滞在した。・・・中略・・・。その集大成が「生きる喜び」だ。この作品はつらく苦しい時代が終わり、再び平和が戻ってきたことを象徴する内容となっている。(p.41)
 その後、中世から焼き物の町として栄えてきた歴史を持つヴァロリスで、陶器づくりに熱中するようになった。そこで繰り広げられたのは、古代地中海世界を思わせるような大胆なデザインセンスに満ちたピカソの世界。ヴァロリスの陶器産業は彼のおかげで息を吹き返した。
1950年に朝鮮戦争が始まると、ピカソは戦争に抗議して「朝鮮の虐殺」を描き、さらにヴァロリス城の中にある古いロマネスク様式の礼拝堂を大作「戦争と平和」で埋め尽くしたりもした。
   《参照》  『ソウル-パリ-東京』 李應魯・朴仁景・富山妙子 (影書房)
            【ピカソが描いた『1951年・朝鮮の虐殺』】
 その後、カンヌに移住し、さらに、エクス・アン・プロヴァンスとムージャンでアトリエを購入し創作を続けた。1973年、91歳の生涯を終える。

 

 

 

【マティス:フォルムと色彩の調和】
 フォルムと色彩の調和。これが生涯マティスが悩んだテーマである。色彩はそれ自体が表現力をもつことを、日本の浮世絵から学んだマティスは、さまざまな色を駆使して画面構成を試みた。そしてついに、色彩によって魂を浄化する静寂と平安の世界を表現するにいたったのである。(p.44)
 1869年、北フランスのル・カトーで生まれたマティスは、18歳でパリに出て、23歳で国立美術学校の聴講生として、ギュスターヴ・モローのクラスに入った。
 2人は新婚旅行でロンドンに行き、その帰りにコルシカ島へ立ち寄るが、はじめて地中海世界に足を踏み入れたマティスは、青い海、白い壁、真っ赤な花といった強烈な光と色に圧倒され、以後彼の絵は色彩へのこだわりを見せるようになる。(p.44)

 

 

 

【コリウールから始まったフォービズム】
 1904年の夏、休暇を過ごすために南仏のサン・トロペに家族とともに行ったマティスは、・・・中略・・・、新印象派のポール・シニャックとクロスに出会う。・・・中略・・・。シニャックに影響されてさっそく色彩を点に分割して描き出したからである。・・・中略・・・。
 翌年の夏にはコリウールを訪れる。南仏の光と色の輝きは、ますますマティスをとりこにしていった。・・・中略・・・。キャンバスのなかで踊るあまりにも強い色、色、色・・・。色彩を感情表現の手段として用いた思いもかけない絵の出現は一大センセーションを巻き起こし、画家たちはその野蛮な色彩のために、〈フォーヴ(野獣たち)〉と呼ばれる。フォーヴィズム自体は短命に終わったが、20世紀の幕開けを飾るこの美術運動は、同時代に起こったキュビズムとともに、後世に大変大きな影響を与えることとなった。(p.44-45)
 コリウールは、スペインとの国境に近い町。
 マティスの絵の色彩は、第1次大戦後になって、フォービズム時代の強烈さは影を潜め、安らかな画面を作り出すために簡素で控えめな表現へと変化していった。

 

 

【ヴァンスのロザリオ礼拝堂】
 1943年(74歳の時)、イタリア軍が駐進してくると、マティスはヴァンスへと移り住んだ。そしてこの町で、大手術のとき彼を救ってくれた看護婦のモニクに再会。修道院の尼層として礼拝堂建設の仕事をしていた彼女に懇願されてマティスは全面的に協力することにし、設計からデザイン、装飾まで全てを手がけた。完成は4年後の1951年。屋根に建つクロスはなければ礼拝堂とはわからない外館、明るくて真っ白な世界に、黄色、緑、青色からなるステンドグラスを通して光が差し込み、白い壁に簡素な線で描かれたキリストや聖母マリア、聖ドミニコなどが浮かび上がる堂内・・・。マティスがもてる限りの力をかたむけたこの小さな礼拝堂は、訪れる人ばかりではなく彼自身の魂の安息所となったのである。(p.45)
 完成から3年後の1954年11月3日、マティスは、ニースで静かに84歳の生涯を終えた。
 芸術によって精神を崇高なまでに高めたマティス。その最後は驚くほど安らかだった。(p.45)

 

 

                <了>