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 タイトルの『シナン』は、オスマントルコ帝国の最盛期を築いたスレイマン大帝の首席建築家として活躍した人物の名前。この本を読んで「イスタンブールに行ってみたい!」と思わない人って、いるだろうか。歴史小説としてとても面白いけれど、この読書記録は、人物中心の視点では書いていない。2007年11月初版。

 

【ミマール・コジャ・シナン】
 ミマール・コジャ・シナンという男の話をしたい。
 オスマントルコ時代の建築家である。
 一般的にはミマール・シナンと呼ばれている。
 ミマールが、トルコ語で建築家という意味で、コジャが、同じく偉大なという意味であるから、ミマール・コジャ・シナンで、偉大な建築家シナンということになる。
 1488年に、トルコのカッパドキア地方のアウルナスというキリスト教徒の村に生まれ、24歳の時に、デヴシルメという少年徴兵制度によって徴兵され、イェニチェリと呼ばれる兵士団に入れられた。この時、イスラム教に改宗させられている。
 時あたかもヨーロッパではルネッサンス運動の真っただ中であり、同時代人にレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、コペルニクス、マルティン・ルターなどがおり、その生涯の後半においては、ガリレオ・ガリレイとも生きた時代が重なっている。
死んだのが、1588年。
百歳まで生きた。(p.12)
 これが、この小説の冒頭の書き出し。
 天才であった。
 一種の異様人と言ってもいい。(p.13)

 並の天才であれば、その前半生においてさっさと優れた作品を作り、30代であっという間にこの世から去ってゆくのだが、シナンは、違っていた。
 36歳 ―― まだ無名。
 46歳にして、やっと名の残る仕事をして、その生涯最大の仕事をやってのけるのは、なんと、さらに41年後の、87歳の時なのである。
 そのかわりに、50歳からのシナンは、狂ったように仕事をすることになる。
 400に余る建築物にこの男がサインすることになるのは、50歳を超えてからである。 (p.285-286)
 50歳を超えてから400以上の建築に関与するって、凄すぎ!
 シナンは、その百年の生涯をかけ、石をもって神を捕えようとした人物である。(p.13)
 “石をもって神を捕えようとした・・・・”
 正確に表現すれば、“石のドームによって・・・”ということ。

 

 

【なぜドームなのか】
 しかし、どうしてドームであったのか。
 どうして、巨大な丸天井を聖堂の上部に冠せねばならなかったのか。
 ただ収容人員を多くするだけの建物であれば、形を方形にして、柱を多く使用すれば、いくらでも巨大なものができたはずである。
 どうして支えのない半球を、人々の頭の上に戴こうとしたのか。
 ドームの屋根は、古代ローマの時代から神殿や教会の屋根に使用されてきている。
 その半球の意味するものは、神である。
 頭上に仰ぐ半球は、そのまま天であり宇宙であった。
 人々は、神の象徴的意味、表現として神殿の天井に半球を使用してきたのである。(p.98)
 ジャーミー(=モスク)のドームについて、「なぜこのような形の建築?」と思ったことのない人は、あんまりこの本に惹かれないかもしれない。チャンちゃんはイスラムに関する著作を読む以前から、ジャーミーのドーム建築の意図や意味の一部を知っていたように思う。だから、この本に惹かれたのだろう。
    《参照》   『メッカ – 聖地の素顔 - 』 野町和嘉 岩波新書
              【イスラムが招く魂の記憶】

 

 

【スレイマニエ・ジャーミー】
 「私は、ずっと昔にカイセリで仕事をしていたことがあるんだけど、そこから見えるエンジェルス山のかたちが、スレイマニエ・ジャーミーのかたちに似ているのよ」
 ジャーミーとは、トルコ語でモスクのことであり、スレイマニエ・ジャーミーは、シナンがスレイマン大帝のために建てた美しいモスクのことである。
 エンジェルス山は、カイセリや、その近くにあるシナンの育った村アウルナスから見ることができる。富士山と同じくらいの高さの独立峰である。(p.19)
 スレイマニエ・ジャーミーはイスタンブール旧市街(ヨーロッパ側)の、ほぼ最高地点にある。なので、海峡を挟んだ対岸にあるガラタ塔や、両岸を結ぶガラタ橋のカラキョイ付近から最も美しく綺麗に見ることができる。
 一方、エンジェルス山とカイセリは、トルコの国土のほぼド真ん中にあるけれど、今は、グーグルアースでエンジェルス山の全容を360度の方向から見ることができる。

 

 

【聖ソフィア】
 こうして、オスマントルコは、ヨーロッパとアジアに覇を唱え、巨大な帝国を築いてゆくのだが、コンスタンチノープル陥落以来、キリスト教国から、120年余りも言われ続けてきたことがあった。
 曰く ――
「野蛮人」
「トルコ人は、他人が築きあげたものを奪うことはできるが、文化的には極めて劣っている。それが証拠に、聖ソフィアより巨大な聖堂を建てることができないではないか」
 聖ソフィアよりも巨大なモスクを建てること ――
 これが、オスマントルコ帝国の歴代の王(スルタン)の夢となった。
 多くの建築家にこの仕事をまかせようとしたが、それをなし得る者はいなかった。(p.14)
 旅のガイドブックには「聖ソフィア」「アヤソフィア」「ハギヤソフィア」といった異なる記述があるけれど、どれも同じモノを指している。最初にこの建造物を造ったのはギリシャ人で、「聖」の意味をギリシャ語で発音すると「ハギヤ」、この発音がトルコ語で訛って「アヤ」になったらしい。
 最初に造られた聖ソフィアは木造で、これは404年に焼け落ちたらしい。
 テオドシウス帝によって再建された第2の聖ソフィアも木造で、532年のニカの乱で焼け落ちた。
 現存するのは、ユスチニアヌス帝によって建てられた第3の聖ソフィアで、完成は537年。シナンが生きた時代の千年前にできていた。
 この聖ソフィア建設にたずさわった建築家はふたりいる。
 トラレスのアンテミウス。
 ミレトスのイシドロス。 (p.93)
 この二人は、建築家ではなく、メカナポイオイ(機械技師、応用幾何学の専門家、数学者)だった。
 聖ソフィアのドーム直径は31メートル。
 
【セリミエ・ジャーミー】
 しかし ――
 これを、コンスタンチノープルが陥落してから122年後、ミマール・シナンという天才建築家が為しとげてしまうのである。
 トルコのエディネルに建てられたモスク、セリミエ・ジャーミーがそれである。
 ドームの直径32メートル。
 シナン87歳の時である。(p.15)
 巨大さにおいて覇を競うのは、チャンちゃんにとって、どうでもいいことのように思えるけれど、ドーム規模で世界最大のセリミエ・ジャーミーには、別の点で“スピリチュアルなジャーミー”であることも、ちゃんと記述されている。
 なお、セリミエ・ジャーミーがあるのは、イスタンブールの西方230kmほどのブルガリアとギリシャの国境近くである。シナンは、巨大な重量を支え切れる堅固な地盤の土地を探し出すことを含めて、積年の技術蓄積の末、エディネルのこの地にセリミエ・ジャーミーを造ったのだろう。

 

 

【第10代スルタン・スレイマン】
「十番目というのは、縁起のいい数です」
 そう言った。
 十という数は、ムスリムにとっては完璧な数を意味する。
 両手の指の数であり、預言者の教友の数である。
 そして、スレイマンは、ちょうどオスマン王朝の十代目のスルタンであった。
「あなたは、あなたの御名の如くに、この世の全てのものを支配するでしょう」
 イブラヒムは言った。
 かつて、この新しいスルタンとなった人物が生まれており、その名はコーランを開いて決められた。
 コーランを開き、そのページの一番最初に出てきた名前を付ける ―― それがソロモン王であった。スレイマンは、このソロモンのトルコ語名である。
 イブラヒムの言葉は、それをふまえてのものであった。(p.160-161)
 イブラヒムは、スレイマンより1つ年上で、一番の側近だった人物。
 命名の仕方が興味深いけれど、スレイマンがソロモンのトルコ語読みだったとは知らなかった。
 「ソロモン」の、トルコ語読みが「スレイマン」なら、英語読みは「サイモン」、日本語読みは「左衛門」である。古代ユダヤ人たちは紀元前後頃に相次いで日本に来ていたのだから、「〇左衛門」という名は、日本にいっぱいいただろう。
    《参照》   日本文化講座 ④ 【 日本と古代キリスト教の関係 】
              【 名前の名残 】

 

 

【同時代の王たち】
 コロンブスのアメリカ大陸発見が、1492年。
 スレイマンの誕生が、このわずか2年後であった。・・・中略・・・。
 この頃、世界は四人の王によって支配されていたと言っていい。世界は、その4人の王たちの持つ権力の力学で動いていた。
 その四人とは ―――
 イギリスのヘンリー八世。
 フランスのフランソワ一世。
 スペイン王にして神聖ローマ帝国皇帝、ハプスブルグ家のカール5世。
 そして、オスマントルコの壮麗王スレイマン大帝であった。(p.206-207)
 僅か10年の間に、この4人が生まれている。
 ヘンリー八世が係った代表的建築物と言えば、ケンブリッジを代表するキングズ・カレッジのチャペルだろうか。このカレッジの設立者はヘンリー6世となっているけれど、完成までに百年かかっているから、実質的に完成させたのはヘンリー8世である。

 

 

 

     『シナン(下)』 へ続く