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 天皇家が東京に遷った後も、京都に残って日本文化を守り続けてきた冷泉家の年中行事と、その間のたいそうな苦労話が書かれている。1999年10月初版。

 

 

【冷泉布美子さん】
 「心の原風景をもとめて」と題された著者による前書きに書かれていること。
 上品な公家言葉、京都の優しい言葉づかい。八十歳を超した女性とは思えない透明感のある声。色白の頬を紅く染めて冷泉家第二十四代当主夫人・冷泉布美子さんが語り始めると、時はゆったりと流れ、平安の昔、雅の世界へとタイムスリップしたような錯覚におちいる。(p.8)
 冷泉布美子さんが冷泉家の跡を継いだのは終戦の年のこと。後を継ぐはずの兄・為臣の戦死によって急遽、五人きょうだいの末っ子・布美子さん継いだ。
“一子相伝”“口伝”―― 父から長男へと受け継がれる世界。兄の戦死は、二〇代の布美子さんに伝統という重みで肩にのしかかった。・・・中略・・・。
 苦難の中守り伝えてきた宮廷の雅は、日本文化の原点、日本人の心の原風景である。次世代にこの文化をどう語り継いでいくかが問われている。 (p.9)

 

 

【御文庫:冷泉家の御神体と五社】
 冷泉家の御文庫はそれ自体が御神体とされ信仰の対象となっております。とくに、二階は神殿として大切に守られ、当主しか入ることが許されておりません。御文庫にはまた春日、住吉、柿本、玉津島、多武峰の五社の他に藤原定家卿の念じ仏が和歌の神様として祀られているといわれております。(p.128)
 春日、住吉、柿本は、有名なので分かりやすい。
 玉津島は、住吉、柿本とで和歌三神とされている。
 御本家の玉津島神社は和歌の浦に鎮座している神さんで、俊成卿が1186(文治二)年にその玉津島神社の御霊を自宅の庭に移し、そこに祠を造って祀ったことが始まりです。(p.162)
 奈良県桜井市の多武峰(とうのみね)にある談山神社(たんざんじんじゃ)の祭神は、冷泉家の祖先である中臣鎌足(談山大明神・談山権現)。
 女性は当主になれないから御文庫の中には入れない。外から拝するだけだという。
 御文庫の入り口に「雪笹」が飾られてありますが、これは霊元天皇(在位1663~87年)から拝領した当主紋で、当主しか使うことが出来ません。(p.129)

 

 

【西王母】
 雛祭りの御所人形といえば、冷泉家にとって欠かせない、一番大事な人形が「西王母」です。・・・中略・・・。
 西王母は中国の崑崙に住む美しい仙人で、周の穆王が西征した時、この美しい仙人に会って、帰ることを忘れたという伝説が残っています。また、漢の武帝が長寿を願ったところ、西王母が天から下り、三〇〇〇年に一度実る仙桃の果実を贈ったという伝説に基づいて、桃の化身と考えられていることから、この西王母は桃の節句には欠かせない大切な人形とされているのだそうです。 (p.61-62)
 ふくよかで性別不明な感じの西王母のユニークな人形が、カラー写真で掲載されている。
 この西王母とよく似た人形が水戸の徳川家にある、と写真を見せていただいたことがありますが、その人形は「西王母」とは呼ばないそうです。(p.62)

 

 

【“相変わらず”という生き方】
 お正月の三が日、祝膳や組重のお煮染などを食べていますといささか飽きてきます。子どもの頃は好きだったお雑煮も大人になるにしたがい、とくにお湯の中で柔らかくしたお餅が好きになれず、やめてしまいたかったのですが、変化を好まない、“相変わらず” “いつもどおり” が大事な父は、それがおいしかろうがまずかろうが、そんなことは関係なく続けてきました。それはお雑煮だけではなく冷泉家のすべての面で、今日まで守り伝えることができた理由のひとつであると思っています。(p.38-39)
 伝統というより神事を司る家系では、“相変わらず” が基本中の基本なのだろう。
 例えば、節分の豆撒きでは、年の数だけ豆を食べることも、高齢で歯が丈夫でなくても二日かけてやり遂げる(p.53)とか 。 直接和歌に関することでなくても、日本文化の守護者としての自覚からなのだろう。

 

 

【新年の歌会始め】
 五日は歌会始め。玉緒会の門人が60~80人集まって、雅やかな中にも凛として、新年の詠み始めを行います。まず、点をかけた(年内に集めて添削を受けた)兼題(事前に出された課題)の詠草(草稿)を懐紙に清書し、その中から10首ほど選んで披講の儀式を行います。この披講の時の正式な装束は、男性は狩衣に中啓(扇の一種)、女性は袿袴に雪洞(中啓の一種)を持ちます。(p.41)
    《参照》   中啓(ちゅうけい)・雪洞(ぼんぼり)

 

 

【節分】
 節分に結婚式を挙げると縁起がよいといわれていますが、その日はすべての方位が吉方、恵方で凶方がないからだそうです。(p.55)
 初耳! 知らなかったのはチャンちゃんだけ?

 

 

【応挙の桜のモデル】
 為村(第15代当主、1712~74年)・為泰(第16代当主、1735~1816年)の時代、円山応挙は和歌の門人としてこの冷泉家に通って来ていたといわれております。応挙の筆になる「桜に月図」のモデルとなった桜の大木が、1977(昭和52)年頃までこの庭にありました。(p.74)

 

 

【上御霊さん】
 5月18日には冷泉家の氏神、上御霊さん(上御霊神社)のお祭りがございます。氏神さんということで、平素から何かとご相談させていただいておりますので、親近感もございます。・・・中略・・・。
 上御霊さんのお祭りでは、正門の両側に大きな提灯を立て、17日の宵祭、18日の神輿が通る時とその晩に火を灯します。この提灯には表に黒で当主紋の「雪笹」が、裏には赤で女紋の「なでしこ」が入っていて、夜、火が灯るとなかなかの風情があります。(p.84-85)
 自分の誕生日には、必ず上御霊さんに参拝する決まりだとか。
 和歌の家の女紋が「なでしこ」って、一般的に言われている「ヤマトなでしこ」と何かしら関係があるのだろう。

 

 

【「乞巧奠(きっこうてん)」と「二星(たなばた)」】
 一年で最も重要な歌会はやはり正月の歌会始め。次いで大切なのが七夕の行事でございます。
 私どのも家では、初秋に二つの七夕の行事を行います。ひとつは歌の門人たち(尚光館、玉緒会)が中心になって行う「乞巧奠」。もうひとつは、家族だけで行う「二星」でございます。ちなみに、「七夕」と書いて「たなばた」と読みますが、私どもでは「しっせき」と読み。「二星」と書いて「たなばた」と読む習しになっております。(114-115)
 乞巧奠で星を祀る祭壇の写真が掲載されている。
 それを見ると、琴や琵琶といった楽器が祭壇に置かれているのだけれど、これについては下記リンク。
    《参照》   『「君が代」その言霊は、潜在意識を高次元へと導く《光の種子》となる!』 森井啓二 (ヒカルランド)《前編》
              【霊的調和に導く「君が代」】

 何やら複雑な祭壇だけれど、写真などなかった時代から、どのように記憶してきたかというと、
 その種類や配列を間違えないようにとつくられた、歌で覚えております。和歌の家ですからなんでも歌で覚えるようになっております。(p.116)

 

 

蹴鞠の四方を囲う木】
「乞巧奠」の儀式は日の高いうちに手向けの蹴鞠から始まるのが正式とされていますが、・・・中略・・・。蹴鞠は桜、松、柳、楓とそれぞれの木で四方を囲った中で行うのが正式のようで、一番格式が高いとされています。(p.117)
 木って以外に重要なのでは、と思う今日この頃。