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 十数年前、宗像大社に参拝した折、石油販売で日本を牽引した出光興産のことを初めて聞いてたのだけれど、その後、さらにその詳細を知る機会はなかった。今回、図書館で、若いビジネスマンのために良書を書いておられ、ソフトバンクを資金的にバックアップして飛躍させてきた北尾吉孝さんのこの本を見て、必読と思い読んでみた。出光佐三さんの著作を元に、著者の補足と見解が記述されている。2013年10月初版。

 

【機械油販売で創業】
 出光興産は、1911年に福岡県の門司で出光商会として創業し、機械油を売ることから始めたという。
 「出光商会の機械油は品質がよく、さらに安い」と認めてもらい、門司や山口県の下関を中心に少しづつ売り先を増やし、ついには大きなシェアを獲得するまでに至った。(p.26)
 戦時中は、日本のアジア進出に合わせて海外へと発展していった。出光が満鉄用に調合した油は、マイナス20度でも凍らなかったため、冬場の車両火災は大幅に減少したと書かれている。

 

 

【敗戦直後】
 しかし、日本の敗戦によって、出光は海外の商圏ともどもすべてを失ってしまった。ゼロからの再スタートではなく、当時の金で265万円の借金からの再スタートだった。このとき、従業員はおよそ1000人。勿論、終戦直後の国内には仕事などない。重役から、「社員には一度会社を辞めてもらおう」という意見が出たけれど、
 「まかりならん。こういうときこそ、日頃唱えている家族主義を実行しなければいけない。・・・中略・・・一人も辞めさすことはならん。
 出光は事業はなくなり借金は残ったが、海外にいる人材こそ唯一の資本である。返ってくる人間は資本である。資本とは、外国の考えから言えば金であるが、出光では金じゃない、人間が資本である」。
 社員は家族であり、僕の子どもたちだ。戦争に負けて、もう国にも僕の子どもたちを抱える力はない、親である僕が抱える以外に方法はない。(p.37-38)
 今日の経営者の感覚からすれば、ビックリするような決断かもしれないけれど、当時の日本人には出光さんと同じような考え方をしていた人が少なくなかったのではないだろうか。
   《参照》   『「質の経済」が始まった』 日下公人 PHP研究所
             【日本は資本主義ではない、人本主義である】

 出光の社員さんたちは、水産業をやったり農業をやったりしながら、苦難の時期を家族のように一致団結してなんとか凌いだらしい。

 

 

【石油メジャーとの提携拒否】
 (日本の石油販売各社は、メジャーとの)提携という形をとってはいましたが、実質はメジャーの人間が経営陣に加わっていて、経営を押さえられていたのです。
 例に漏れず出光興産にも外資の手が伸びてきました。しかし、出光さんの主義からして、外資に牛耳られた、主体性のない元売りになっても仕方がないということで、日本で唯一メジャーとの提携を一切しない形をとりました。(p.47)
 戦後日本の石油業界において、敗戦国日本の石油会社が、世界の石油を仕切っている戦勝国のメジャーを敵に回して、民族系石油会社を維持していたというのは凄いことである。メジャーと提携したのは13社。提携しなかったのは出光1社だけ。
 そのためには、様々な苦労があったのは言うまでもないことだけれど、仕入れに関しては、メジャーの守備範囲外のメキシコやロシアから独自に石油を調達していたのだという。

 

 

【イランからの買い付け】
 そして当時、出光は、イギリスとの間で紛争を起こしていたイランにも買い付けにいった。
 六甲、摩耶の連山を背景とし、折からの旭光を浴びた日章丸は、その名にふさわしく日章旗を朝風にひるがえしている。ぼくは白羽の矢を手に船に上がった。そのまま船橋に上って、そこに奉祀してある宗像神社に矢を捧げ、船長とともに一路平安を祈願した。(p.59)
 出航から帰港して荷揚げするまで、胃に穴が開きそうな状況が続いていたらしい。しかし、裁判沙汰になりながら、結局は英国が控訴を取り下げることで決着がついた。
 イランからの石油輸入を契機として、出光興産はその後大きく発展し、現在に至ります。過去、エネルギーの確保でメジャーにそむいた人、欧米のエネルギー政策に背いた人で生き残ったのは、出光さんだけではないかと思います。(p.75)
 日本国の最高権力者となりながら失墜させられた田中角栄さんの痛ましい例が、すべてを物語っている。下記リンクのコメントに。
    《参照》   『中国元がドルと世界を飲み込む日』 ベンジャミン・フルフォード (青春出版社) 《前編》
               【中国 vs 金融資本家】

 

 

【宗像神社と宇佐神宮】
 出光の日章丸には宗像神が勧請されていた様子が書かれていたけれど、宗像神社は出光さんの産土神社である。
 僕は福岡県の宗像郡(現宗像市)で生まれた。そこには宗像神社がある。このご祭神は国民の祖神といわれる格の高い神様で、お伊勢さん(天照大神)の3人のお姫さまをおまつりしてある。そこに「天孫(あめみま)を助け奉って天孫に祭(いつ)かれよ」というご神勅がある。これは「皇室を助けて皇室にまつられよ」という意味だ。(p.81)
 そしてもうひとつ、北九州にある主要な神社・宇佐神宮にも縁があるらしい。
 出光さんご自身は福岡県宗像ですが、遠祖は大分の宇佐神宮の大宮司さんだった (p.92)
 僕の家には昔から言い伝えがある。大分県の宇佐神宮のそばに出光村というところがあり、そこから光が出たということから「出光」という名前がついたらしい (p.97)
 出光さんは皇室を篤く崇敬されていました。現在出光興産の本社は、皇居の見える丸の内にあり、出光さんは皇居を拝んでおられたといいます。(p.106)
 宗像と宇佐に鎮まっている神々は、明治維新から第1次・第2次世界大戦の時代にかけて、日本を守るために中心的な役割を担った神々なのだろう。
    《参照》   『2013年から5万6千年ぶりの地球「超」進化が始まった』 山田雅晴&上部一馬 (ヒカルランド)
              【童謡「カゴメの歌」】

 終戦二日後に出光さんが言ったという下記の言葉は、これらの神縁が言わせた言葉なのかもしれない。
 私は従来「出光は事業そのものを目的とするにあらずして、国家に示唆を与うるにあり」と諸君に訓してきた信念からも、戦後の難局に処して、国家が出光主義の行者を要することは論をまたない。しばらく経過を見たいと思う。(p.34)

 

 

【出光の根幹】
 僕の家も人情に厚い地方の影響を受けて、よい家風だった。父は僕に「働け、働け」と言い、怠けたら非常に叱られた。「働け、そして質素にせよ。ぜいたくをするな」と言われた。
 この父の教えが、僕の会社の今のあり方になっている。・・・中略・・・。そうして「ぜいたくをせず、人のため、国のために尽くせ」と。また「自分に薄くして人に厚くせよ」とも教えられた。これが今日の出光の根幹になっている。(p.83)

 

 

【神業(かみわざ)を招いたもの】
 石油タンクは元売りの必須条件です。その石油タンクを入手できる千載一遇のチャンスながら、期日までに代金を支払えなければ絵に描いた餅でした。東京銀行からの融資で石油タンクを購入できた出光興産は、悲願だった元売りへの第一歩を踏み出したのです。
 東京銀行とのやりとりのときのことを、後日出光さんは「神業のような気がした」とおっしゃっています。(p.99)
 出光興産の従業員たちが必死になって全国各地に放置されていた旧海軍の石油タンクの底をさらっているのを、後に東京銀行になる横浜正金銀行の人が見ていて、2000万円の赤字を抱える会社に、4000万円という巨額の融資を決定してくれたのだという。
 「出光の根幹」に違うことなき従業員たちの汗を流す姿がなければ「神業」は行われなかった。これが行われなければ、出光は元売りになれず、当然、その後の出光の発展もなかったことになる。であれば、日本の繁栄も昇龍の勢いは決してなかっただろう。

 

 

【天佑神助】
 出光は戦災にあったところがない。日本国内にも・・・中略・・・日本国外にもたくさんの施設があったが、一カ所として戦災にあったところがない。
 東京の店はかつて歌舞伎座の隣にあったが、空襲によって周りはすべて焼け、歌舞伎座も焼けたけれども、出光の建物だけが一つ焼けずに残った。・・・中略・・・。
 こういうことを挙げれば数限りがない。そういうわけで、「天佑神助(天や神の助け)」があると信じている。(p.102-103)
 「国を守る」という神意に叶っていればこそのことだろう。
 1963年には出光興産の徳山製油所を昭和天皇・皇后陛下がご視察されています。
 出光さんが亡くなられた際、昭和天皇は、「出光 佐三、逝く」として、「国のためひとよつらぬき尽くしたる  きみまた去りぬさびしと思う」と詠まれました。(p.106-107)