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 源氏物語絵巻に関してはある程度まとまった記述があるけれど、その他の美術品に関しては美術館の展示に添えられた説明のままみたいな記述である。そんなに古い本ではないけれど、「ゐ」とか「せう」など、戦前(?)の日本語で書かれている。1983年8月初版。

 

 

【源氏物語絵巻の美意識】
 「源氏物語絵巻」には、当時の貴族たちの抱いてゐた、最も洗練された“美”の意識や価値観が表象されてゐると考えられ、それこそがこの絵巻の製作動機であり、目的であったと捉えられるでせう。(p.28)
 絵巻には人物が多く描かれているけれど、それらすべての顔に共通する「引目鉤鼻」に、当時の美意識が読みとれるという。

 

 

【引目鉤鼻】
 『枕草子』にも「絵にかき劣りするもの なでしこ。菖蒲。桜。物語にめでたしといひたる男・女のかたち」とあります。
 では、物語にめでたしと云われてゐる光源氏や紫上たちを描かなければならない画家には、どの様な手段が残されてゐたでしょうか。それは鑑賞者たちが主人公たちに抱いてゐる憧憬に共通して潜んでいる因数的要素を抽象して、印象的に示すにとどめ、なるべく多くの余白を残し、鑑賞者各自の想像によって補はせる様な描法、換言すれば、印象によって触発された感情を、移入し充填し得る余白部分を最大限に残しておく描法、それがすなわち「引目鉤鼻」の技法だったと考えられます。(p.55-56)
 判るような判らないような説明であるけれど、以下の記述を読めば納得できるだろう。
 「引目鉤鼻」の技法によって描かれた人物の容貌が、当時の人々の讃仰の的であった阿弥陀仏の容貌にどこか似通うのも、決して偶然ではなく、むしろ必然であるとも納得されるでせう。(p.56)
 「引目鉤鼻」の技法によって描かれた人物の顔つきは、当然、極めて静かで穏やかです。すなわち、顔に劇しい喜怒哀楽の表情を現わすこと、慎みを欠いて感情を露骨に表現することは、卑しむべきことであり、“醜”と考えられてゐたことを意味し、反対に『源氏物語』が、あくまでも静かな雅やかな世界として讃仰されてゐたこと、そこに構成されてゐた“美”の意識とは、静寂優雅の美であったことを意味すると解されます。そしてその“美”の意識や優雅静寂に対する価値観は、決して『源氏物語』と云う一つの文学作品のみに限って、特に抱かれ成立したものではなく、平安朝後期の宮廷貴族たち、当時の多くの人々が共通して抱いてゐた“善”なるものの認識に通じ、“極楽浄土”の宇宙観へとつながってゐたのです。(p.58)
 現代の日本人には、当時の「引目鉤鼻」の美意識って、いまいちピンと来ないどころか、若者なら直にダサイと思ってしまうんだろうけど、日本趣味の欧米人には、かえって興味深い説明かもしれない。

 

 

【熊毛植黒糸威具足】
 戦(いくさ)の時に使われた鎧一式の名称。 「威」には「おどし」と“ふりがな”がつけられている。
 家康から尾張初代義直に譲られた「御譲品」のひとつです。 ・・・(中略)・・・ 。「熊毛植黒糸威具足」は、家康がことに愛用した具足と思われます。桐製の地に黒漆を塗った大きな水牛形の角が、兜の両側に高く突き出し、南蛮鉄の兜、胴、草摺、臑当に熊の毛を植えつけ、黒糸で威した具足です。 (p.118-119)
 兜についているのが水牛の角というのは何故か。
 徳川家は、水牛が多く農耕用に使われていた華南地方をルーツとしているはずである。
   《参照》   『新説2012年 地球人類進化論』 中丸薫・白峰 (明窓出版) 《前編》
             【古代ユダヤと秦一族の繋がり】

 

 

【尾張徳川家 ⇒ 徳川美術館】
 尾張徳川家の創まりは慶長12(1607)年、家康がその第9子義直を尾張に封じた時と捉えてよいでせう。62万石を領して名古屋城に住み、紀州55万5千石、水戸25万石の上に位する「御三家筆頭」の家格をそなえていました。(p.126)
 個人所有の品々を法人所有にして徳川美術館が出来たのは昭和10(1935)年。その頃は、美術館なんて珍しかったから、大層な入場者があって、美術館の運営は上々だったらしい。
 ところが、
 美術館の開館後間もない昭和12年に日支事変が勃発し、その4年後には大東亜戦争へと戦局は急速に悪化して、国家非常事態を迎えるに至りました。金属回収令によって美術館は窓枠や暖房設備、除湿設備まで失うに至り、昭和20年には建物に10mの至近爆弾を受けて、窓や扉はもとより、展示ケースのガラスも大半破損すると云う大被害を蒙りました。その上、終戦によって財団の基金の99%を占めていた満州鉄道の株は一挙に無価値となり、全く収入の途を断たれるに至ったのです。(p.132)
 戦時中から戦後へと激変の時代状況が書かれていたから書き出しておいた。
 戦時中の金属回収令で、日本中のお寺から鐘が無くなったという話は聞いたことがあったけれど、徳川美術館であっても例外ではなかった。
 紙屑になってしまった満鉄株の話が出てきたついでに、日本時代の満鉄の弾丸列車は現在の満州鉄道より高速で走っていたという記述を読んだことがあるのを思い出した。そして、当時と今日では、地名もそしてその漢字も変わってしまっている。
   《参照》   『中国火車旅行』 宮脇俊三 角川書店
              【簡体字】

 

<了>