《前編》 より
 

 

【 『羅生門』 】
 史上未曽有の惨憺たる大敗北を喫し、精神的な劣等感に囚われて、すっかり自信を喪失していた日本人を力づけ、勇気を与えたのは、昭和24年の全米水上選手権における古橋広之進の自由形三種目の世界新記録更新と、湯川秀樹のノーベル物理学賞、そして昭和26年の 『羅生門』 のヴェニス映画祭金獅子賞受賞である。
 日本人はこれでグランプリという言葉を覚え、文化面でも映画においては、欧米と十分対等に渡り合えるという意識を持つことができたのだった。(p.162)
 芥川龍之介の原作を映画化した黒澤明の 『羅生門』 が、どうして日本美のベスト10に入っているのか分からなかったのだけれど、敗戦直後の時代を生きていた年配の日本人の皆さんにとっては、こんな大きな意味があったということ。

 

 

【 『釈迦十大弟子』 】
 『羅生門』につづいて、日本人がグランプリという言葉を意識したのは、それから5年後のヴェニス・ビエンナーレで棟方志功が受賞した時である。(p.165)
 ふう~~ん。で、国内外の評価は
 この受賞に、国内の美術界はいたって冷淡であった。
 学歴が小学校卒だけで、正規の美術教育を受けていない志功をゲテモノ視する意識が画壇では一般的であったせいだろう、グランプリ受賞は「ジャポニカ」(欧米人の日本趣味)に投じたまぐれ当たりの僥倖でしかなく、あれを日本の現代美術の代表とされたのではたまらない・・・という反発の声や、嫉妬の白眼視のほうが遥かに多かった。(p.166)
 「なんで学歴が関係あんの?」って思うけど、帝大系列の権威主義頭はこう考えるんだろう。
「棟方は天才的な芸術家で、エーリッヒ・ヘッケルやカール・シュミット=ロットルフといったドイツ表現派の画家に比較できるといえよう」 ・・・(中略)・・・ 。
 ぼくが卓見と考える哲学者谷川徹三の説はこうだ。
「棟方の芸術が、日本美の伝統の中で、縄文の系譜を受けていることは争われない。」(p.169)
 棟方さんは青森県出身だから、縄文の系譜という解釈は地政学的にも妥当なんだろう。

 

 

【 『お伽草子』 】
 わが国最古の古典 『古事記』 と太宰文学は、その口誦性と音楽性、演劇性においてばかりでなく、快活なユーモアと悲劇を喜劇に逆転させるパロディー性に溢れている点においても、大いに共通している。
 中学2年のとき最初に読んだのが、『人間失格』ではなく『お伽草子』だったので、暗い虚無的な作家ではなく、徹底して明るい物語作者として意識に刷り込まれ、こんなに笑わせる小説を書く人はいない、という考えは、以来60年以上経った今もまったく変わらない。(p.182)
 チャンちゃんは最初に読んだのが『人間失格』だったから、太宰が『お伽草子』なんていうのを書いていたことすら全然知らなかった。ビビビ~~~~のビックリである。
 作順から見れば、『お伽草子』の「明」から、『人間失格』の「暗」へと移行したのだから、その中間で一体全体何があったのだろう。やはり、肺病という虚弱であろうか。
   《参照》   『堕落論』 坂口安吾 (角川文庫クラシック) 《後編》
              【太宰と芥川を死に追いつめたもの】

 

 

【「君が代」】
 国歌「君が代」の章に、津田左右吉博士の事が書かれている。そっちの方が興味深いから、「君が代」に関しては下記リンクで代替。
   《参照》   『フォトンベルト 地球第七周期の終わり』 福元ヨリ子 (たま出版) 《後編》
              【島津斉彬】

 

 

【津田左右吉博士】
 津田博士という方は、「皇国史観」一色の戦前は、学者としての研究態度を貫いたがために不敬罪で起訴され、左翼反動の戦後にあっては、あえて熱烈な天皇擁護の論述をした方だった。
 敗戦の翌年一月に創刊された「世界」の編集長吉野源三郎は、早速原稿を依頼した。
 寄稿を承諾した津田は、疎開先の平泉から原稿を二度に分けて送ってきた。一回目の「日本歴史の研究における科学的態度」は、期待通り皇国史観の非学問性を完膚なきまでに論破した論文であったが、二回目として送られてきた「建国の事情と万世一系の思想」の後半において、完全に予想を裏切られた。
 編集部としては、過去の遺物である天皇制の迷妄を木っ端微塵に粉砕してくれるものと期待したのに、そこに書かれていたのは、これ以上ないくらい熱烈な皇室擁護、天皇に対する徹底した親愛の情の表明だったのである。(p.193-194)
 帝国主義時代に利用された天皇制について、日本人として理解しておくべきことが、天皇擁護の前段までに書かれているから、そこを書き出しておく。
 皇室の永続性は、日の神を自らの祖先としてそれを祭る宗教的、精神的権威と、政治の局に直接当たらず、時の権力者にたいしてつねに弱者の立場にあったことから生まれた。
 こうして一方において皇室が永続し、一方において政治の実権を握る者が次々に交代していくという、世界に類のない二重政体組織の国家形態が、わが国には形づくられた。
 ところが明治維新後、ヨーロッパで最も軍国主義的であったプロイセン(ドイツ帝国の中核をなした王国)に範をとって制定された大日本帝国憲法は、天皇の任務に突如として、陸海軍の統帥権と、行政全てを総覧する大権を加え、わが国古来の伝統に反するこの権威と権力の一元化によって、天皇は極度に神格化された。
 その結果として、敗戦後の今日生まれた天皇制廃止論は、民主主義をも天皇の本質をも理解せざるものである。(p.197)
 んだ。
   《参照》   『日本人と天皇』 村松剛 (PHP)
 編集部を驚愕させた津田博士の天皇擁護の結論を書き出すのって、長いからシンドイ。
 読みたい方は、自分で購入して読んで下さい。
 

 

<了>