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 2006年1月初版。この本が出たばかりの頃、目にしていたのに、何ゆえそのとき読まなかったのだろう? といまさら思ってしまう。
 ところで、内容に関して、著者が語ろうとする一貫した筋は分かるのだけれど、チャンちゃんにはいまいちシックリこない感じの個所がある。多分、著者の知の思考基準自体が、西欧のそれに偏しているからだろう。

 

 

【「かわいい」の世界展開】
 「かわいい」 の美学は国境を越え、民族と言語の壁を越え、思いもよらぬところで、人々に蒐集を呼びかけ、コスプレの変身原理となり、消費社会の重要な参照項目と化している。
 そう、「かわいい」 は今や全世界を多い尽くす一大産業と化している。任天堂はポケモン・グッズで5000億円を越すビジネスを商い、日本発のキャラクター商品の総売り上げは年間に2兆円を越している。キティーちゃん関連のグッズは60カ国で販売され、その点数は5万点に及んでいるのだ。(p.14-15)

 

 

【日本文化における 「かわいい」 の通時性】
 わたしは文化本質論を気取るつもりはないが、11世紀の 『枕草子』 に有名な叙述があるように、日本文化の内側に小さなもの、幼げなものを肯定的に賞味する伝統が確固として存続してきたことは、やはり心に留めておくべきだと考えている。それは欧米のように未成熟を成熟への発展途上の段階と見なし、貶下して裁断する態度とは全く異なっている。「かわいい」 を21世紀の後期資本主義社会の世界的現象とのみ理解するだけでは、それが日本から発信されたことの理由が理解できなくなってしまうだろう。共時的な認識と通時的な認識とを同時に働かせない限り、「かわいい」 の美学、神話学に接近することはできないのだ。(p.17-18)
 このように 「かわいい」 に関する文化的本質を対比的に的確に記述してくれているのに、後続の論考ではこの日本文化における 「かわいい」 の本質的記述があまり生きていないように思えてしまうのである。

 

 

【 「かわいい」 という言葉の起源】
 「かわいい」 という言葉は、いかなる起源を持っているのだろうか。
 この単語の起源を遡ってゆくと、文語の「かはゆし」 にぶつかる。それをさらに遡ると 「かおはゆし」 という言葉に突き当たる。 「顔」 と 「映ゆし」 が結合した言葉である。・・・(中略)・・・。「かおはゆし」 とは直訳するならば、顔が以前にも増して明確に引き立ったり、興奮のあまり赤く色づいてしまうことを示すことになる。今でいう 「萌え」 という単語は、その意味で先祖返り的なところがあり、興味深い。
 ・・・(中略)・・・われわれが今日もっぱら用いている 「愛らしい。かわいらしい。子供っぽい」 という意味は、 『大言海』 では3番目に置かれているにすぎない。それはその意味が、「かはゆし」 の成立直後にあって、まだ後発で周縁的なものにすぎなかったことを示している。(p.30-31)
 アニメキャラの、“しょこたん”こと中川翔子ちゃんが 時々テレビで 「かわいい」 ではなく 「かわゆし」 って言ってるよね。
  《昔》    ⇒  《今》
 「かはゆし」 ⇒ 「萌え」
 「うつくし」  ⇒ 「かわいい」
 「くたし」   ⇒ 「美しい」
 昔から現在まで、意味が少しずつずれて今日に至っているのだけれど、「美しい」 と 「かわいい」 と 「萌え」 の関連は興味深い。

 日本人なら中学生の時みんな習っている 『枕草子』百四十六段に 「かわいい」 の例がある。
 うつくしきもの 瓜にかきたるちごの顔。 (p.31)

 

 

【現代人が頻繁に発する 「かわいい」 について】
 二つの大学の学生に 「かわいい」 に関するアンケートをとった結果から、興味深い考察が記述されているのだけれど、多くの学生が 「かわいい」 について複雑な両義を感じていると書かれている。
 彼(女)は 「かわいい」 という言葉がもつ魔術的な牽引力に魅惑されながらも、同時にそれに反撥や嫌悪をも感じている。「かわいい」 ものに取り囲まれている日常を送りながらも、この言葉が意味もなく万事において濫用されていることに不快感を感じている。・・・(中略)・・・
 こうした両義性は、「かわいい」 が今日の社会に横たわっている巨大な神話であることを証立てている。わたしがここで 「神話」 と呼んでいるのは、・・・(中略)・・・若き日のロラン・バルトが 『現代社会の神話』 のなかで定義したように、不自然な虚構であるものを自然で非歴史的なものに見せかける、意味論的なトリックであるという意味においてである。(p.64-65)
 最後の抽象的な表現は、ちょっとややこしいけれど、 “トリックである” という部分だけを述語として理解するなら頷けるだろう。即ち、
 「かわいい」 という言葉は、トリックである。
 確かに、そんな側面がある。

 

 

【 オードリー・ヘップバーン と グレタ・ガルボ 】
 バルトも若書き日の神話学研究の中で、オードリー・ヘップバーンとグレタ・ガルボという2大女優を比較し、前者が 「実体の次元」 にある 「個性化された」 「出来事」 の顔であり、「本質的なものを何ももっていない」 とすれば、後者は 「プラトン的イデアの一種」 であり、「手が届かないけれど諦めきれない一種の絶対的な肉体」 であると語っている。フランス語に 「かわいい」 に相当する単語がないためにバルトはこうも七面倒臭い表現を使わなければならなかったのだろう。端的にヘップバーンは 「かわいい」、ガルボは 「美しい」 と書けばよかったのである。日本におけるヘップバーン人気の異常さはしばしば海外でも話題にされるが、思うにそれは日本人の 「かわいい」 コンプレックスに由縁するものではないだろうか。(p.75)
 「へぇ~」 が三つ連続して書かれている。
 現代日本のお笑い芸人・オードリーのピンク色のベストを着た春日くんですら、最近の若者はきっと 「きもかわ(いい)」 と言うのではないだろうか。オードリー・ヘップバーンが生きていたら、「春日くんが、私とおんなじカワイイ側の分類なの?!」 って言いながら卒倒することだろう。
 どうでもいいことだけれど、オードリーの春日くんは、チャンちゃんの学生時代の友人で現在は高知県に住んでいる小栗さんに似ている。顔もマッチョ系であることも。最近スカイプしてないけど生きてるかなぁ?

 

 

【きもかわ】
 わたしは本章の冒頭で、「かわいい」 が 「美しい」 の隣人であると記したが、この言葉は厳密に訂正をしなければならないだろう。すなわちグロテスクであること、奇形であることこそが 「かわいい」 の隣人なのだ。両者を隔てているものは実に薄い一枚の膜でしかない。だがその観念的な膜に保護されているがゆえに、「かわいい」 は親しげで心地よいものとして肯定的に受け留められ、その膜の外部に置かれるがゆえに、「醜い」 「きもい」 は脅威的で不安と不快感をもたらすものとして忌避される運命となる。(p.88-89)
 チャンちゃんには、この記述が直観的にピンとこないのだけれど、“しょこたん”こと中川翔子ちゃんなら、この記述がよくわかることだろう。“しょこたん” の描くマンガには 「きもかわ」 系がけっこうある。

 

 

【「かわいい」の政治性】
 小さなものをめぐるフェティッシュな偏愛は、その対象とそれを見つめる側との間に、好むと好まざるとにかかわらず成立してしまう政治性を抑圧する方向へと向かう。ひとたびこの事実を認めたとき、「かわいい」 とはこの隠蔽の作業のために動員されてくる、イデオロギー的方便であることが判明するはずだ。(p.111)
 「かわいい」 は政治性を隠蔽するイデオロギー的方便であるといっている。ここでいう政治性とは、支配・被支配関係のことであり、狭義にはサド・マゾ的な意味合いも含まれているのだろうけれど、これは、西欧的価値基準による解釈なのではないだろうかと思ってしまう。
 子供(小さなもの)を不完全な者、未成熟な者とみる西欧文化は、そこに縦の人間関係の序列をつけるけれど、子供(小さなもの)を無垢な者、神宿る者とみる日本文化は、そこに人間関係の序列をつけようがないだろう。その意味において、日本人が言うところの 「かわいい」 に政治性が存在しているとは思えないのである。
 p.120 に記述されている、ノスタルジア、スーヴニール、ミニチュアールという三位一体がつくりなす美学という論考についても同様に思えてしまう。
 なぜ幼子たちは 「かわいい」 のか。それは、彼らが起源の純粋さと神聖さを喧伝するさいに、もっとも効果的な隠喩だからである。(p.120)
 この文章も、すでに政治性という西欧的思考基準の土俵内で記述された表現だろう。
 国家・宗教・戦争といったことどもを実感せざるをえない政治性自体が、西欧の歴史に嵌められた枷なのである。日本には西欧ほど強固に政治性という枷は存在していない。
   《参照》   『魂よ、目覚めよ』 門脇佳吉 岩波書店

              【国家・宗教・戦争】

 なぜなら、極東の島国である日本の国民がおしなべて国家という概念を持つようになったのはせいぜい明治維新以後であり、この点において、常に歴史=戦争と看做さざるを得ない状況下にあった西欧諸国の政治的文化性は、その根の深さに依って日本の政治的文化性とは全く異なっているからである。