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 経済発展が著しく政府の政治的な図書規制もなくなった中国では、本の購入は増えているらしいけれど、先進国では、一様に読書離れの傾向が進んでいる。2000年11月初版。

 

 

【人文系の 「かたい本」 】
 いくつかの読書に関する調査は、本全般が読まれなくなってきたというよりも、人文系の学術書や思想書、文学や古典などの 「かたい本」 がめっきり読まれなくなってきたことを伝えている。(p.13)
 愚民化教育がおこなわれてきた日本においては、読みこなすだけの読解力のない若者が急増したことによって、「かたい本」 が読まれなくなったのだろう。分かりやすい理由である。
 しかし、先進国で一様に成り立つ理由は下記である。

 

 

【「かたい本」 とは・・・】
 ユマニストはかつて、スコラ的な 『俗なる読書』 を批判した。しかし、電子テクスト空間の誕生によって、読書は再びスコラの時代に似通いつつある。(p.102)
 ユマニストたちは、如何なる読書を称揚したのか。彼らは 「知識の深淵」 の限界を悟っていた。たいせつなのは知識と言葉の達人となることではなくて、真理を体得することであった。読書行為が、「精細緻密な読みと、度重なる瞑想」 によって、テクストという骨をかみ砕き、その滋味豊かなエキスを一心不乱に啜る犬に喩えられていたことを想起しよう(ラブレー『ガルガンチョア』)。巨人にふさわしい圧倒的な知識量で、神学者・哲学者連中に 「公開討論」 を挑んでは、ばったばったと斬りまくる若年のパンタグリュエルが、むしろ風刺的に描き出されていることも忘れまい(『パンタグリュエル』)。
 やがて国民国家形成のプロセスで、由緒正しいテクストの選別がおこなわれて、近代国家のアイデンティティを支える一群の 「聖典(カノン)」 が編成される。こうして19世紀には 「国文学」 「フランス文学」 「フランス史」 といったディシプリンが成立する。売れなくなったとされる、古典や 「かたい本」 とは、基本的にはこうした知のパラダイムに連なるテクストであるにちがいない。極言するならば、われわれはそうしたテクストを、ルネッサンス以来、さして変わらない読み方をしてきたのだ。(p.103-104)
 なるほど、分かる気がする。
 近年の若者たちは、アニメやインターネットによって、近代国家のアイデンティティを支える一群の 「聖典」 を飛び越して、外国文化を、知的にではなく感覚的に理解しているのである。
 かつての区分は 「聖・俗」 だったのだろうけれど、現在は 「文字・動画」 という区分だろう。インターネット上では、テキスト画面より動画像へのアクセスの方が圧倒的に多くなっている。情報量とすれば、文字 < 写真 < 動画 の順であり、情報量が閾値を越えると左脳は機能しなくなり右脳に活動野が転移するのである。若者たちは、論理力という基準(左脳)ではなく、視覚情報処理力という基準(右脳)を元にハイスペックな人類として、生まれながらの能力を本能的に発揮しようとしているのだろう。

 

 

【 「市場の論理」 と 「文化の論理」 の幸福な結合 】
 マーケティングによって企画された “売れる本” が、店頭で幅を利かすようになるから、 “個性的で価値の高い本” が脇に追いやられてしまう傾向がある。
 もちろん、個性的な価値の高い本も依然として生産されているのだが、そういう本は、日本の書籍流通制度の中では、ほんの短い時間しか書店の店頭にとどまらず、読者の目にも留らぬ速さで出版社に戻ってくる。時間をかけてじっくりと本をつくることも、本を売ることもむずかしくなっている。 「市場の論理」 と 「文化の論理」 の幸福な結合が失われるとは、こういうことなのだろうか。(p.63)
 時の流れが穏やかだった時代は、「市場の論理」 と 「文化の論理」 の幸福な結合が可能だった。
 しかし、近年の経済のグローバル化は、時間の流れを極度に加速してきたのである。人間の思索速度が、時の流れの速度を支配下においていた時代は、「文化の論理」 と 「市場の論理」 の幸福な結合が可能だった。
 現在、大方の人間の思索速度は、時の流れの速度に追随しきれていない。明らかに遅れだしている。だから、人文系図書の内容は、急速に陳腐化し遺物化しているとも言えるのではないだろうか。
 いずれにせよ、マヤ(時の民)文明が予告していた “時の終わり” とは、時の流れが加速する臨界点であり、それを共通理解した人々が増えるに及んで、新たな市場、そして、新たな文化が創造されるのだろう。
 “個性的で価値の高い本” が店頭から消え去り倉庫に入ってしまったとしても、インターネットの検索技術によって、ロングテールを構成する倉庫本は、かつてより陽の目を見る確率が高くなっている。
 インターネットが読書人口を奪ったというのは事実無根の思い込みである。
   《参照》   『ウェブ進化論』 梅田望夫 (ちくま新書) 《後編》
            【「恐竜の首」派と「ロングテール」派】

 

 

【活字リテラシーは時代遅れ?】
 ぼくはこの4年ほど、あるコミュニティー・カレッジで、テレビのホームドラマや映画の映像から目に見えない人間関係や社会背景を読みとるという授業をやっています。生徒の三分の二がその中高年層、60すぎぐらいの男性なんですけど、これがけっこう難しいんですよ(笑)。読書習慣が身についているのは確かなんですが、本や新聞から手に入れた外側の知識に映像をはめこもうとして、なかなか映像そのものを読みとってもらえない。活字のリテラシーが身にしみこみすぎて、映像を読むということができなくなってしまっている。(p.132)
 マンガを読む場合であっても、吹き出しの台詞を読まずに内容を理解している若者は少なくないけれど、オジさんたちは、描かれている人物の表情よりも、吹き出しの活字ばかりを読んでいるのである。
 これって、完全に旧タイプ(左脳タイプ)。
 活字(言葉)は論理力を養うとは言っても、高度に進化した人類は、思念を思念として伝授し合うテレパス能力を持つようになるのであり、言葉より圧倒的に情報量の多いイメージ(映像)を直接伝授できた方が、ことはより速やかなのである。
 若者の活字離れをそれほど心配する必要はないだろう。今後、高度に進化してゆく情報処理社会は、高い情報量を持つ映像をそのまま活用できる能力を持つ、インディゴチルドレンのようなニュータイプの人類によって維持される筈だからである。

 

 

<了>