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 芸術家の魂は常に精神の自由を希求する。そんな感じを予感させるタイトルなのでちょっと期待して読んでみた。著者は、出版元の大学の音楽学部教授。専門楽器はピアノらしい。

 

 

【音大は就職に不利?】
 音楽大学だから就職に不利ということはありません。それどころか、小さい頃から一つのことをコツコツ続けてきたことや、舞台での 「自己アピール」、さらにいわゆる 「もてなしの心」 などの経験が評価され、意外にも一流と言われている企業に就職する学生が多いのです。(p.32)
 代表的な人を挙げるなら、ソニーに迎えられた大賀さんだろう。
 でもまあ、こんな世俗的なことを知りたくてこの本を読んだのではない。

 

 

【ほころびがあるくらいのほうがいい】
 シュヌア先生とは、著者がドイツに留学していたときの先生。
 シュヌア先生は、冷たい感じがするくらい完璧な、表情の乏しい演奏をとても嫌います。それぞれの人がもっている息づかいや言葉づかいみたいなものが感じられる演奏を求めました。ほころびがあるくらいのほうがいいと。ピアノではふつう、いちばん弱い左手の小指でも同じ強さの音が出るように練習します。でも先生は、
「10本の指はみんなちがう。でこぼこの音になってもいいじゃない?」
 とまで言うのです。(p.56)
 国際的な音楽コンクールでは、精密機械のように正確な演奏をする日本人はさほど高く評価されない。真の芸術家は、「人間は機械じゃないのだから」 という当たり前のことを当たり前に考えている人々なのだから当然である。
 芸術は機械的な IQ(知能指数) で評価するものではない。むしろ人間的な EQ(感情指数) や MQ(道徳指数) が大きなウエイトを占めてこそ真実に至れるはずである。
 テクニック上であるレベルを超えると、弾くということとは別に、その人の人間性がいやがうえにも現れてきます。とげとげしい気持ちの人の演奏は往々にして攻撃的であったりします。(p.115)
 畢竟するに芸術家の器として最終目的は、高貴な精神に感応できる人間性(EQ)、もっといえば霊性(MQ)に沿うことにあるはずである。

 

 

【芸術家ならではの心の満足】
 芸術家にしか得ることのできない心の満足というものが存在するのです。それは、バリュー・フォー・マネー(お金に換算するといくらになるか)や、成果主義や、他人との比較とはまったく別次元の満足感です。突然そんなことを言ってもわけがわからないかもしれませんが、これはいばっているわけでも強がっているわけでもありません。自由に生き、自己の精神を開放し、他人に自分がどう評価されるかを気にしなくなったとき、じわじわと芽生えてくる特有の感覚なのです。他人からみれば超ひとりよがり独裁自己中的満足に映ることもあるかもしれません。しかし! それともまったくちがうのです。
 そしてそこに至ると、一人前かどうかなんてどうでもよくなってしまいます。(p.23-24)
 このような思いに至っている人々は、芸術家だけではないような気がする。生活のために毎日意味のない仕事に従事する必要を感じていない人々の思いは、この記述に近いのではないだろうか。チャンちゃんはこれに近い。
 この視点から見て、最悪の精神に縛られているのが公務員だろう。自らは何ら創造することなく規則どおりに管理するだけで、なんでもかんでも世間体に照らして人生を過ごす。こんな愚かしい人生を選ぶくらいなら死んだほうがマシと思える人は、まだまともな魂へと至る趨勢を残している人といえるだろう。
 ただし、心が社会的束縛から離れて自由に生きていたとしても “ひきこもり” のような人々には、下記のような高貴なものを希求する精神性はないだろう。
 芸術家の満足感や誇りとは、かたちでもお金でも名誉でもなく、芸術を享受し味わえる自分です。(p.85)
 僕の演奏時間分は、作曲家と僕だけの空間になるのです。僕のなかには、こんなにすばらしい芸術に触れている自分がいる。お金では絶対に買えない満足を僕はもっている、という、えも言われぬ感覚が湧いてくるのです。・・・(中略)・・・ 「自分を忘れ、自分を超えて価値のある何かに没頭し、一体化することで得られる精神的な充足感、いわば真の幸福感」 そのものなのです。(p.103)
 高貴な精神性(魂)に触れ得ないのならば、自分を超えたものに一体化する体験が全くないのならば、人生にはたして意味があるだろうか。 チャンちゃんはそう思っている。
 ところが、社会意識というコントロールグリッド(支配網)に捕らわれた(洗脳された)まま、その自覚すらない人々は、このような考え方など、人生の中で決して思いつくことすらないのである。
    《参照》   『アセンションの超しくみ』 サアラ (ヒカルランド)  《前編》
              【社会意識(コントロール・グリッド)という檻から出る】
 

 

【人生の意味?】
 フランクルの 『夜と霧』 について言及した後
 「意味」 は、あの強制収容所のようなすさまじい場面では心の支えにもなってくれます。自分の中に 「意味」 をもっている人は逆境にあっても強いけれど、「意味」 を見つけ出していない人は弱くて 「囚人」 になりがちです。
 でもその 「意味」 は、「人生の意味とは何か」 みたいなことではありません。ひと言で表せるようなものでもみんなに共通のものでもなくて、一人の人のある場面でしか語ることができないのです。(p.86-87)
 “人生の意味” は、それぞれに状況に従って見出されなければならない。すべての人に共通する “人生の意味” はない。そう言っている。
 そもそも、「自分探し」 という視点で生きていている間は、自らの人生を駆動させる確かなものなど何も発見できないだろう。人間の意識は宇宙と連動するから、探そうとすれば宇宙は探そうとする環境を提供するだけである。
 人は、アウシュビッツのような苛烈な環境下におかれて初めて、その環境下における人生の 「意味」 を見出すようになる。その場合であっても、相対的に見出しやすくなるだけであって、絶対的なものを見出しているのではない。
 環境に関わりなく、絶対的というに近しい位置づけで 「意味」 を見出している人にだけ、宇宙はその人の人生に 「意味」 に見合った輝きを与える。この場合の 「意味」 とは、転じて言うならば 「発願(請願)」 なのである。
 「請願無きは菩薩の魔事なり」 という修行指針が仏教にはあるけれど、なにも仏道修行に限ったことではない。全ての人の人生にこのような 「発願」 が必要なのである。
      《参照》  『未来を拓く君たちへ』 田坂広志 (KUMON)
               【人生の意味】

 

 

【土地にある霊的な力】
 それぞれの土地には、目には見えない、言葉でも言い表せない霊的な力とでもいうようなものがあります。それがその土地に宿っているという事実は、どんなに練習し、どんなに努力したとしても、現地へ自分で行かなければ経験できないものとして、芸術の世界に立ちはだかっています。(p.141)
 歴史上に栄えた 「○○の都」 には、その 「○○」 に相応しい神霊界がある。日本語で “通い路” と言われる天からのパイプが降りている。天才もこのような通い路にあってこそ、インスパイアーが得られるのである。
 広義における神道的な用語で言えば “産土力” というのだろうけれど、民族性、国民性もこれに影響されている。

 

 

【自分らしさ】
 自分らしさとは他人とまったくちがう自分をうけいれることだと気づいたときから、僕は僕としての歩みを始めたと感じています。(p.158)
 人と同じ事をしていないと不安になるというような “自分らしさ欠乏症” の人が、この本を読んだら、きっと気持ちが楽になることだろう。
 チャンちゃんの場合は、「もう少し人と同じ事をする気になれないものだろうか」 というような、“カラスの勝手で症” を諌める本が相応しいのだけれど、そのような本って、この日本という国には恐らくないのだろう。多分、公務員的な発想しかできない人間ばかりがこの国を支配しているからである。

 

<了>