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 副題にある通り “新しい時代の生き方” を指南しているのであるけれど、旧世代の教育者や経営者ならば、タイトルを見ただけで 「唾棄すべき書物」 と決めつけることだろう。現代という時代状況にあっては、誰かれ問わず、偏見を排して一読に値する “生き方論” であり “社会論” でもある。
 「どう生きたらいいのか分からない」 と思っている新世代の若者たちに対しては、普通の大人など思いもつかない発想で語られているので、読後に、少しは肩の荷が下りて心が明るくなるはずである。若者読者を元気にしてくれる好材料の一つは、中国大陸から留学生として日本へやって来て以来、いくつもの会社を起こした実績のある宋さんの実体験と、いろんな状況での正直な気持ちが所々に書かれていることである。
 バブル崩壊以降、日本の社会構造がすっかり変わってしまっているという認識なきままに、 「努力が足りない」 とか 「頑張れ」 とかのワンパターンな言葉ばかり連発する旧世代のトンチンカンにも、是非、読んでほしい書籍である。

 

 

【努力】
 本書を理解する上でのキーワードの正誤辞典が、p.192 以降に記述されている。
努力
《×》
 もともと 「努」 の文字に 「奴隷の力」 という意味が込められているように、主体性のない労働者が強制的に仕事をさせられていること。転じて、自主性と目的性を持たずに、周りの評判を気にしてムダな力を注ぐ美徳主義を指す。個人の才能を損ない、人生を台無しにする。
《○》
 本当にやりたいことや目標に向かって思いきり力をぶつける、主体的で前向きな行動様式。周囲からは大変な苦労に見えても、本人は夢中なので非常に楽しい。ムダな努力とは対照的に、明るい雰囲気の中で行われる。(p.192-193)
 旧世代の人々は、職業においてそれほど選択肢のない時代を生きてきたから、不平不満を言わずに努力することなど当たり前と考えているのだろう。ところが若い世代は、選択肢などいくらでもある中で、当惑したままエネルギーを注ぐ対象を得られずに漂流しているのである。
 《×》は旧世代の美徳が時代に即応せず悪徳に転じていることを指摘している記述だから 「その通り」 と思う。
 しかし、《○》の記述にあるような実践ができる対象を掴めていないという人々が殆どなのだろう。

 

 

【努力だけしていればよかった時代の方が、事態はずっとシンプルだった。】
 成功を目指さない自由、努力しない自由。
 そこにこそ幸せがある、という考え方をすると、人生は随分楽しく生きていけるはずです。
 では、自分なりの幸せな生き方をデザインするためにはどうしたらいいのか。
 実は、この問いへの答えが難しくてみんな困っている、というのが現状ではないでしょうか。一人ひとりの 「幸せ」 のイメージが違うのですから、一概にこうしなさい、と回答を出すことができません。
 みんな、自分で考えるしかないのです。自分で描く幸せなイメージに向かって、何をどうしたらいいのか、一人ひとりが考え、実行していくしかありません。努力だけしていればよかった時代のほうが、事態はずっとシンプルでした。(p.14-15)
 上記の引用に次いで、以下のように記述されている。

 

 

【 「努力 = 成功」 という図式】
 新しい社会の中では、すでに、努力すれば必ず成功する、という図式は完全に崩壊しています。(p.15)
 中学や高校などの教育の現場でこんなことを露骨に生徒に言えないだろうけれど、このような認識で社会を直視して考え方を整理しようとする意志のない教職関係者こそ不誠実というものである。現在は、「努力 = 成功」 という図式は、基本的に正しかろうと、それを当て嵌められない状況があまりに多いのである。
 単なる精神論のような 「努力 = 成功」 という繰り言はマッピラなのである。
 先に書き出したように、努力の 「努」 は 「奴隷の力」 としての元意であり、使役された奴隷は、専ら農耕に従事させられてその力を発揮してきた。しかし、日本は元々農耕社会であったから、「奴隷の力」 というようなマイナスの側面に思い至らず、まじめな生き方として美徳主義の根幹を形成してきたのである。
 しかし、現在の日本はすでに農耕時代ではないし、高度成長期のような正社員だけの労働形態ではない。ボーダレスなマルチ産業時代であり、正社員は就労人口の半数程度しかいないよう格差社会になっているのである。努力に応じて富が人々に行き渡るような社会ではなくなっているのである。
 高度成長期には通用した 「努力=成功」 という図式は、現代社会の実質に全くそぐわないものになっている。ならばいっそのことさらに過去に遡って努力の元を辿って再検証してみるのも一つの方法である。
 そもそも農耕時代の努力とは、肉体を維持するための生存本能としての行為が元であり、それが後に穏やかな美徳主義の用語に転じたのもだったはずである。ならば、時代を超えて生き続ける上で最も深い底流にあるのは、「努力」 ではなく 「生存本能」 ということになる。となれば、必要なのは 「努力」 ではなく、「生存本能のような生存の根幹から発する確かな行動因子」 である、となるはずである。
 こう書くと、旧世代の人々は、「現代の日本の若者は、恵まれてい過ぎて、生きる意欲自体が失われている」という言い古された表現によって、「努力どころか、生存本能に代替するものなど、よけい見つからない」 ということになってしまうけれど、そういう順序で考えてはいけない。

 

 

【まずは 「努力」 が失わせているムダを取り去る】
 まずは、現代日本社会において 「努力」 が失わせているムダを取り去ることである。ムダがなくなれば、おのずと正しい方向にエネルギーを向けられる。そこで新世代と旧世代が共にエネルギーを収斂させれば本質的な回答が見い出されることもあるだろう。
 まずは下記の様な、 「努力」 が失わせているムダを取り去ることである。
 必要でない努力を美徳主義によって迫ると、どんどん実用的ではなくなっていきます。お説教がうるさくて面倒なので、努力しているふりをする人が出てくるからです。(p.21)
 現実に、意味のない残業をし続けている企業などいくらでもある。時代の変化を理解できていない愚鈍な管理職が、部署のトップにいると、「努力しているふり」 が蔓延するのである。
 最低である。人生の意味がまったく失われており、大切な時間がボカスカ死滅してゆく。

 

 

【変えるべきなのはどっち?】
 (若者に対して)税金を払ってないとか、経済活動に貢献していないとか、社会活動がどうとか、さまざまな批判がありますが、すべて筋違いです。それは社会や制度が解決すべき問題であって、彼らの問題ではありません。政治家や経営者は、若者の新しい生き方に対応できるように、社会や制度を考えるのが仕事なのではありませんか。
 それが面倒だから既存の社会や制度に合うように生きろ、というのでは、本末転倒、人類に進歩はありません。(p.27)
 年金制度など、将来的に成り立たないことはハッキリしている。それらは、大人たちによる杜撰な見通しと大人たちによる杜撰な管理と大人たちによる驚天動地の杜撰な運用が原因なのであって、若者達には何等原因などない。若者達は、大人たちが作り成した社会の中で育ってきただけである。
 大人の作った制度に、若者を沿わせようとするな!
 大人達が発想を変えて、責任を持って社会と制度を作り変えよ!
 12年連続で年間自殺者3万人を超えており、社会に出る頃バブルが崩壊し就職が困難になった30代の若者世代の自殺者だけでも年間5千人近いのである。