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 咀嚼力を身につけるには、質もさることながら量も大切であることが語られている。

 

 

【読解力・咀嚼力とポジション】
 要するに、広い意味での読解力や咀嚼力で勝っているから決断できるわけです。重役も困ったときには、さらに副社長や社長が会社の命運を考えて、最終的な決裁をする。
 そのように、係長にしても課長にしても、あるいは部長、取締役にしても、どうするかというときには、目前の問題を読解し咀嚼して、「じゃ、こうしよう」 と決める、広い意味での読解力、すなわち、序論、本論、結論と頭の中で展開していくという、その読解力にかかわっているわけです、どのポジションまで務まるかは。(p.38)
   《参照》   『一番下に潜れば、価格競争に勝てる!! 深見所長講演録23』
             【まとめる力】
 

 

【学問の力】
 『論語』 の中で孔子は、「之れを知るを之れを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知れるなり」 と弟子に言っています。 「お前に物事を知るということはどういうことか教えてあげよう。 『これは知っている』 『これは知らない』 ということをはっきりさせることだ。これが物を知るということなんだよ。人間、何でも知っているわけではない。このことは知っているけれど、このことは知らない。知らないことは人に頭を下げて学んでいこう。これが物事を知るということなんだよ」 と、孔子は言ったわけです。
 これはまさに己を空しゅうする方法です。自分も正しいかもしれないけれども、人も正しい場合がある。フィフティフィフティーだったり、四分六だったりする。そういうふうに、客観的かつ冷静に自分を見ていける目を養うことができるのは、やはり学問の力です。人間は、学問の力を身につけなければいけないのです。(p.93)

 

 

【 「知」 と 「良知」 】
 「聖人に至るの道」 は学問なんだ、と朱子学では言っているわけですけれど、しかし、王陽明はそうではない、と。「聖人はなるものではなく、もともと自己の中に内在しているものであり、人欲がそれを覆ってしまっていて、外に出てきていないだけなんだ。欲をなくし、己をなくすことによって、自分の中に眠れる本来の聖人、これをだしていく。その聖人の知恵こそが良知なんだ」 と言って、知に対して良知という言葉を使った。より禅的な中身を言っているわけです。(p.96)

 「知」は後天、「良知」は先天、と言えるだろう。

 「知」は、この世次元の事物をより多く学ぶことで身に着けることができる。

 「良知」は、異次元からもたらされるひらめきによって得られるだろう。この場合は、次元(視点)が高いので、この世次元でどう生かすかは、「知」を介在させなければならない。

 

 

【一千冊の読書】
 名前のある文学者なり、古典や名作といわれているものを一千冊読んだら、いろいろな考え方がインプットされ、一つの悟りのような境地に立ちます。人生、宗教、哲学、宇宙、自然・・・・あらゆる分野の本を一千冊読み終わったとき、ものの考え方の基礎ができ上がる。そのうえで、自分の人生観、恋愛論、職業観、世界観などを語ると、一千冊分の知性を超えた上にある自分の考え方だから、「なるほど、確かにそうですね」 と言われるようになり、大変な説得力が身につくわけです。(p.110)
 学生時代に一千冊程度は読んでいたと思うけれど、古典とか名作はその中にあまり入っていなかった。当時も今も、知らないことが学べる楽しみや新発見や新奇なものを探し出すのが楽しくて本を読んでいるだけである。だから、私は今でも、ものの考え方の基礎ができていない。
 数ばかり読んでいても、高貴な精神によって書かれた高貴な書物でなければ殆ど無駄である。著者は別の著作の中にそう書いているし、私もそのことはよく分かっている。
 

 

【文学性】
 (鄧小平は)三回失脚しましたけど、失脚中に何をしたかというと、古今東西の古典を徹底的に読んで、学問を積んでいたのです。 ・・・(中略)・・・ 。万巻の書物を読んで、そして文学に親しんだのです。
 だから彼は、毛沢東に宛てた手紙一本で復権しています。鄧小平は三たび失脚しましたけれども、全部、手紙一本で復権している。つまり、手紙一本の文学なのです。 ・・・(中略)・・・ 。やはり、らつ腕の実力の奥には、学問と文学性がある。それがあるから、人々の心をとらえていくことができるわけです。(p.108-109)

 

 

【コミュニケーションの達人】
 いま申し上げた努力、つまり、儒教的学問で己を空しゅうして見ていく目を養っていく修養と、知性を磨くための一千冊の読書と、表現のレトリックの文学性。この三つがあって初めて、本当の意味におけるコミュニケーションの達人になれる。その努力もしないのに、コミュニケーションの達人になれるはずがありません。これが人間関係の達人、コミュニケーションの達人になる極意であり、本質です。(p.111-112)
 若者の養成に鋭意努力している著者が、あまりにも読解力がなく、あまりにも知性の低い若者たちの存在を嘆いていたのを耳にしたことがある。
 我々一般人が、若者をくさすのは簡単だけれど、修養と知性と文学性の三つを兼ね備えるのは、誰にとってもかなりハードルが高いはずである。

 

 

【ギャグだって一千回】
 ギャグがうまくなるには、まず私のギャグの本を買って(笑)、狂言を見て聞いて、落語を聞いてインプットする。そうやって一千個を超え、一千シーンと、一千種類のギャグのパターンを超えたとき、奔流のごとく自分のギャグ界というのが出てくるわけです。(p.116)
 ギャグだって知性だって何だって、一千回未満などという入力回数では、たいしたものは生まれないのである。
 但し、インプット一千回を超えたとしても、脳を経由しない飲食物のアウトプットは、決して秀でたものにはならない。ず~~~っと同じオシッコや同じウンチである。美食家だからと言っても、高級なウンチが出てくることもない。(脳を経由する味覚は、進化する可能性があるけれど)
 
<了>