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 「ピアノの詩人」 と言われている(?)ショパン。 小学校の低学年用の書籍。作曲家の人生の概略と、その経過の中で作られた曲が順を追ってCDに収録されているから、私のようなクラシックのウルトラ初心者には丁度いい。
 CDに収録されている全18曲のうち、聴き覚えのあった曲は、《ノクターン》作品9-2、《華麗なる大円舞曲》、《即興幻想曲》、「前奏曲集」第7番、「前奏曲集」《雨だれ》、《子犬のワルツ》の6つだけ。

 

 

【当時の東欧の国際情勢】
 父はフランスからポーランドにやってきた人でポーランド人の母との間に生まれたショパンは、1810年生まれ。
 19歳のとき、
 音楽院を卒業すると、フレデリックはエルスネル先生のすすめで、オーストリアのウイーンに行き、世界中から優秀な音楽家の集まるこの街でリサイタルを開き大成功をおおさめました。それは、天才少年フレデリックから、世界のピアニスト、ショパンへの輝かしい第一歩のように思えました。(p.22)
 折からの政情不安で、祖国を後にしたショパンは、再びウイーンへ。
 オーストリアはロシアとともに、なんどもポーランドを侵略してきた国です。(ワルシャワで)反乱がおこったと聞くとロシアの味方をするここオーストリアの首都ウイーンの人びとは、ポーランド人のショパンに冷たく、「神がポーランド人を作ったのは間違いだった」 という陰口さえ、ショパンの耳に入ります。(p.30)
 この頃のポーランドは、大国ロシアの圧政に苦しみ屈服させられつつあった時代である。やがてロシアの占領下となった東欧の周辺諸国は、表向きは事大主義路線でロシアに追従するしかなかったことだろう。ポーランドと同様ロシアの支配下におかれた旧東ドイツの屈服ぶりも半端じゃない。
   《参照》   『佐貫亦男のひとりごと』 佐貫亦男 (グリーンアロウ出版社)
              【 ドイツのユンカース社 】

 

 

【パリ】
 1831年、ショパンは、ウィーンをあとに父の母国、フランスのパリへゆく。この途中で、祖国ポーランドはロシア軍に占領されたことを知り、 『革命』 という曲を作ったという。
 ショパンは、ポーランドの貴族からヨーロッパ一の大富豪、ロートシルト男爵夫妻に紹介されます。男爵は当時、「ヨーロッパの歴史を動かした」 といわれるほどの実力者、そしてその夫人はパリ社交界の中心人物でした。男爵家のサロンに招かれたショパンは、そこで請われるままにピアノを演奏し、いあわせた富豪や貴族たちを魅了します。(p.36)
 ロートシルト(赤い楯)とは、ロスチャイルドのこと。当時のショパンは、祖国ポーランドを占領したロシア軍の戦費が、自らのパトロン的存在であったロートシルトから出ていたことなど知る由もなかったことだろう。

   《参照》  『富の王国』 池内紀 (東洋経済新報社)

 

 

【サロン】
 リストをはじめメンデルスゾーンなどの音楽家、詩人のハイネ、小説家のバルザック、そして、革命を題材にした絵画 「民衆をみちびく自由の女神」 を描いたドラクロワとも、友達になりました。(p.37)
 やがてジョルジュ・サンドと出合う。
 ジョルジュ・サンドの本名はオロール・デュパンといいます。当時は女性の本は読まれなかったので、男性の名を使いました。(p.45)
 ジョルジュって、てっきり女性の名前とばっかり思っていた!
 日本人の感覚なら、ジョルジュは普通に女性である。
 ジョルジュと旅に出たマジョルカ島で、雨季にあいショパンは結核みたいになっちゃった。

 

 

【雨だれ】
 ショパンはこのマジョルカ島で、前奏曲集を仕上げています。
 その中で、この曲は単調に打ち続けられる音が雨だれのように聞こえること、また、雨季に入ったマジョルカ島の人里離れた僧院で書かれたこと、などから 《雨だれ》 とよばれるようになりました。
 かなり沈鬱な曲である。
   《参照》   『音楽を愛する友へ』 フィッシャー (新潮文庫)
             【フレデリック・ショパン】
             【深刻で美しい青春時代の恋】

 

 

【フィーネ】
 ショパンが一番初めに作った曲が 「ポロネーズ」 で、最後の曲は、「マズルカ」だったのです。
 ともに愛する祖国の民族音楽です。(p.58)
 享年39歳。亡骸はパリの墓地に、心臓だけはワルシャワの教会に埋葬されている。

 

 なんたって、小学生用の書籍だから、記述が単調過ぎて読み物というより殆ど荒筋だけという感じである。
 

<了>