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 5年ほど前、何度も映画館に通って見た映画 『ホテルビーナス』 の原作を古書店でたまたまみつけた。映画では無言のうちに語られていた登場人物たちの心理が、この小説にはつぶさに描かれている。どっちもいい。映画は原作を損ねていないし、原作が映画の印象以下ということもない。

 

 

【辿り着くだけの街】
 出ていく人間も、訪れる人間もめったにいない。この街は目指す街ではない。ただ辿り着くだけの街だ。(p.7)
 そう、そんな街だからこそ、それに相応しい者達が吹き溜まってくる。それがカフェ・ビーナス。
 カフェ・ビーナスを経営するビーナスはオカマだけれど、そのこと自体は作品に関係ない。

 

 

【名前から自由になれる】
 互いを、どうでもいい名前で呼び合うこの習慣は、誰が始めたわけでもない。名前に意味や希望が込められていると、人はそのせいで絶望することがある。ここの連中はそれをよく知っている。だから僕はカンであり、傍らにいるのはビーナスであり、ワイフ、ソーダ、ボウイなのだ。ガイもサイも本当はどんな呼び方でもいい。代わりはいくらでもある。それくらいの名前の方が、人は名前から自由になれる。
 ドクターだけは違う。ドクターは、昔は本当に医者だった。言ってみればドクターは今、名前の残骸の中で生きている。(p.23)
 それぞれに、訳あってカフェ・ビーナスに辿り着いた者達なのだから、無名性は保たれてこそ生きやすい。みな寡黙であり笑顔はあまりにも例外的である。
 少女のサイという綽名は、寡黙を超えた沈黙からつけたれた。ソーダは弾ける笑顔に象徴された綽名。
 映画の中では、最初のソーダの笑顔と、最後のサイの微笑みがどれほどこの作品を輝かせていたことだろう。
 

【無回転な心】
 3年前にビーナスにやって来て、賄いのような雑用係りをしているカン(草薙くんがやっている主役)が、最近ガイと共に来たばかりのサイのことを語っている。
「誰にも近寄ってほしくない。だけど、誰にもいなくなって欲しくないっていう、そんな目だよ」
 ・・・中略・・・
 心に鍵まではかかってないってことだ。 ・・・中略・・・。 心に回転があるとして、おおざっぱに喜びを正の回転、悲しみを負の回転だとした時、サイの心は、すべてが相殺されて無回転になっている、そんな気がした。そして心が無回転になってしまうその感覚は、残念だけど僕には何となくわかった。(p.30)
 そう、残念だけどチャンちゃんにも何となくわかってしまう。
 こんな連中ばかりがカフェ・ビーナスには集っているから、この作品に魅かれるのだろう。

 

 

【何かが手遅れ・・・】
 自分でも気づかないほどかすかに滲み続けた涙は、それは外に浸み出てこないとわからないのに、外に浸み出てきた頃には何かが手遅れになっている気がして、僕は恐かった。(p.35)

 

 

【花屋になりたい訳】
 カンとソーダの会話
 「どうして花屋なの?」
 ・・・中略・・・。
 「あたし、みんなにおばかさんおばかさんって言われてたんだ」
 ソーダ自身も確かにいつも自分のことを馬鹿だと言う。笑いながら。
 「仕方がないの。うちはみんな頭がよかったの。お父さんもお母さんも、お姉さんも妹も。お父さんは町でセンセイなの。お姉さんは何でも出来るの。妹もお姉さんの真似がすぐ出来るの。アタシは出来ないの。お母さんがいつも言うの。あなたがいなかったら完璧な家族なのにって。ほんとにそうなの」
 ほんとはそうじゃないと、僕は思う。
 「正直言うと、花屋じゃなくて、花になりたいの。でもなれないの。だから花屋になるの」 (p.108)
 書き出したかったのは、最後の1行だけで。それより前の行は切り離してもよかった。
 “花になりたいの” というフレーズにプッツンしてしまった。
 魂がある境域を超えてしまわなければ、この様な表現はでてこない。
 映画の中に、このフレーズがあったのだろうか・・・記憶にはない。

 

 

【誰もが屑として、輝かしく生きている】
 誰も屑じゃない。屑なんて一人もいない。誰もがちゃんと生きている。ガイも。サイも。ソーダも。ボウイも。ドクターもワイフもビーナスもダスターたちも。何があっても、何を抱えていてもあるいは抱えきれなくても、でもみんな生きている。
 あるいは誰もが、この世界中の誰もが屑だと言ってもいい。誰もが屑として、輝かしく生きている。(p.212)
 自分の中に住んでいる屑チャンに、この言葉とこの作品を応援歌として・・・・・

 

    □  THE HOTEL VENUS | Never Ever
    ■  映画 『ホテル・ビーナス』 のことを書いたブログ
       『殴り殺される覚悟で書いた 親日宣言』 チョ・ヨンナム 講談社
              【ホテル・ビーナス】
 
<了>