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 最近、頭が読書モードになっていない。すっかり心と頭が曇りきっていて、感度が悪くなっている。いっそ全てを忘失してしまえたらと思いつつ書架を眺めていたら、このタイトルが目に入った。
 「死を思え・・・」
 1983年初版のこの本は、 東京漂流』 (「ディングルの入江」の中で言及している) と対をなす作品。 20数年ぶりの再読。
 
 
【自然を真似なくなったら・・・】
ニンゲンは自然をよく真似る、女はとくにそうだ。
海の方の女は気性が荒い一面がある、それは海のせいだ。山の方の女はえてして優しい、それは植物のせいである。
自然を真似た女は畏い、そしてやさしい。
自然を真似なくなった女は、
狂う。 (p.81)
 この本が書かれた25年前の日本は、まだコンピュータ社会の萌芽期で、テクノストレスのような言葉さえ語られる前だったのではないだろうか。しかし著者は、鋭い感性で近代社会がニンゲンにもたらす歪みを感じ取っていた。 『東京漂流』 に誘われて東洋の果てを放浪するエグザイルとなった私は、意識に掛けられたいくつもの枷の存在に気づいたものだ。されど、その枷を脱しきることができたわけではなかった。同時代を生きていた若者たちは、自身の裡に内在する枷に嵌った狂気の結末を、クイーンの 『ボヘミアン・ラプソディー』 の歌詞の中にみていたりもしたのではないだろうか。
 最近は、自然を真似るどころか、自然から隔絶したコンピュータ社会環境の中で、男女共、狂っている自覚すらないのではないだろうか。文学作品や楽曲を通じて “狂気を開放する術” を知らない人々は、何の気なしに狂気を実践してしまいかねない。
 先日ニュースを独占していた事務次官殺害事件は、まさにジャパニーズ・ラプソディーであろう。

 

 

【身辺にそれだけ多くの死を所有する】
肉親が死ぬと、殺生が少し遠ざかる。一片の塵芥だと思っていた肩口の羽虫にいのちの圧力を感じる。草を歩けば草の下にいのちが匂う。信仰心というのはこんな浅墓(あさはか)な日常のいきさつの中で育まれるものか。老いた者の、生きもの対するやさしさは、ひとつにはその人の身辺にそれだけ多くの死を所有したことのあらわれと言えるのかもしれない。 (p.116)
 “やさしさ” をあえて漢字で表記していないのは、人間だけの命に限る世界ではないからなのだろう。しかし、自然と隔絶した環境の中に生きる人々は、身辺にそれだけ多くの死を所有することなどできはしない。一体いかなる術をもって “やさしさ” を育むのだろう。心の鈍重さに狎れ切った魂は、羽虫のいのちの圧力を、ただただ煩わしいと感じてしまうことだろう。

 

 

【あとがき】
前著 『東京漂流』 で、わたしはわたしの青春時代であった13年間を賭けて、現ニッポンを分解し、カルテを書き、ときにはつばをかけ、あるいは意識の変容を迫った。
つかみどころのない懈慢な日々を送っている正常なひとよりも、それなりの効力意識に目覚めている痴呆者の方が、この世の生命存在としては優位にあるのだ。
わたしは後者の痴呆の方を選ぶ。

 墓につばをかけるのか、・・・・・・それとも花を盛るのか。

 『東京漂流』 が 「つば」 であるなら、本書 『メメント・モリ』 は 「花」 である。
それは、ニンゲンが本来的に持つ 「憎」 と 「愛」 の二つの現われだともいえる。
わたしは、あきらめない。      (p.173-174)
 死を想いて、墓に花を盛る。この方向に・・・前向きな解法は・・・ないような・・・気がする。
 たとえ、それを 「愛」 と呼んだにせよ・・・・である。
 もっとも、そもそも文学は、予感、方向、ないし気づきを示唆するまでが、その役割なのであろうから、私の記述自体、単なるボヤキである。
 
<了>
 

  藤原新也・著の読書記録

     『ディングルの入江』

     『メメント・モリ』

     『なにも願わない手を合わせる』