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 ロルチャイド家の紋章である「赤い楯」は、さながら血族の象徴であろうけれど、このタイトルの「青」は、ロックフェラーという血族に関する直接の象徴ではない。ロックフェラー家が財をなすに至った石油運搬用のバレル(樽)の色に因んでいる。


【ロックフェラー家の祖先】
 ロックフェラー家の祖先は、ロッシュフィーユまたはロックフィーユ(岩の葉)といって、フランスのラングドック地方に住んでいた。それが1685年、プロテスタント・ユグノー派の迫害のときに、ドイツ・ライン河近くのコプレンツへ逃れることになる。 ・・・(中略)・・・。そうこうして1723年には、ヨハン・ピーター・ロックフェラーという一人の若者がアメリカの地に下り立った。 (p.9)
 この家系からジョン・D(デイビソン)・ロックフェラー(1839-1937)という財閥の初代が生まれる。ジョン・Dはエリー湖南岸にあるクリーブランドという土地で、当時、鯨油から移り変わりゆく勃興期にあった石油ビジネスに手を染めていた。

 

 

【スタンダード石油】
 19世紀中頃、クリーブランドという石油生産地から消費地であるニューヨークへの石油輸送は、専ら鉄道に依存していた時代である。バレル(樽)から漏れ出す石油のロスを改善するために、ジョン・Dは、青く着色したバレルを大量に管理生産し、鉄道会社と特約契約を交わし価格競争で優位に立ち、業績を伸ばしていった。
 ロックフェラー・アンドリュース&フレイグラー社は新しく生まれ変わったのだ。それは古い会社のスキャンダルを覆い隠すためでもあった。ジョン・Dは、全ての石油会社を評価するうえでの新しい基準(スタンダード)になってほしいという思いから、社名をスタンンダード・オイルとつけた。 (p.57)

 彼はクリーブランド中の銀行の頭取たちを訪問し、スタンダード・オイル社の株を買う機会を申し出た。こうして、ジョン・Dの競争相手たちは、銀行のドアが次々と目の前で閉じていく様を見せられるのであった。 (p.62)
 ロックフェラー家の末の弟、フランクは、ジョン・Dのライバル会社で働いていた。フランクはロックフェラー家の同胞となることを拒み、一生をジョン・Dへの憎しみに捧げた。
 また、石油輸送が鉄道からパイプラインへ移行すると見るや、先鞭をつけていたタイドウォーター社に内部抗争を仕掛け、買取を成し遂げたりもしたのである。(p.115)

 こういった手法は、アメリカ国内での企業戦略に限らない。後に、世界中で繰り広げられるアップストリームの利権争いでも、この手法はいかんなく発揮される。

 

 

【ゲイツ牧師と慈善事業】
 ゲイツとジョン・Dは、ここ数年間のうちで、最大の慈善事業といえるシカゴ大学を創設した。この大学は、バプテストの神学校として1856年に創設され、すべてのバプテストの教育計画の基となるよう計画された。(p.151)
 こういった多額の寄付行為は、ロックフェラー家の評判の挽回のためであったのか、純粋な善意であったのか?
 ジョン・Dがまっしぐらに飛び込んでいった慈善事業が、かえってかれの個人的財産を膨大に増やしたのは、皮肉な事実だった。それは、かれが最終的に慈善事業だけでなく、個人的な投資も――― 言い換えればスタンダード以外のすべての資産を ――― 優秀な財産運用役のゲイツ牧師に委任したためであった。 (p.156)
 これらは、最終的にロックフェラー財団として実を結んでゆく。

 

 

【スタンダード・トラスト】
 1880年代半ばに、カスピ海のロシアの大規模なバクー油田が開発されるまで、世界の輸出向け石油市場はアメリカの独壇場だった。ということはつまり、スタンダードが世界市場を独占していたということだ。
 ジョン・Dとその仲間たちは、これまであらゆる手段を行使して政府の組織を手中に収めていた。実質的に上院議員たちを「所有」していたと言っても過言ではない。
 「我々の最大の援助者の一つが、ワシントンの国務省である。大使たちや大臣たち、領事たちが世界の隅々にまで新しい市場を推し進めるのを助けてくれた」とジョン・Dは述べている。 (p.159-160)
 ゲイツ牧師による慈善事業も、権力の絶頂を極めたロックフェラーへの非難を回避するには至らず、彼の息子ジュニアに降りかかって行く。

 

 

【ラドローの悲劇】
 ラドローにある鉱山開発に関って、11人の子供たちが窒息死した。しかし、この難局を、ジョン・D・ジュニアは乗り切った。
 ラドローは、世論がロックフェラー一族へ不当に低い評価を示していることを意味していた。ラドローはジュニアを、立派な事業家として仕立てたのである。 (p.196)

 

 

【ジョン・Dの孫たち】
 長男:ジョン・D・3世、次男:ネルソン、3男:ローレンス、4男:ウインスロップ、5男:デイッビッド。

 

 

【祖父と孫の誕生日】
 初代、ジョン・Dと、その孫のネルソン・ロックフェラー。
 二人の誕生日は同じである。フロイト的解釈によると、息子と祖父が同盟して父親に対抗しているとも取れる。ネルソンが「権力」にとりつかれていったのは、祖父が「管理」にとりつかれたことの変形だった。違ったのは、ネルソンが道徳的に劣っていた点だけだろう。祖父にとって「管理」は、目的に対する手段であった。ネルソンの「権力」は、それ自体が目的で行使されたものだった。 (p.216)
 ネルソンの野心は、南米地域への事業拡張に留まらず、アメリカ大統領という国家権力の頂点をも目指していたのである。権力とスキャンダルに取り憑かれていたネルソンは、腹上死という、人生の最期を飾るには最も相応しいエンディングを遂げている。

 

 

【ローレンス・ロックフェラー】
 1938年、ローレンス・ロックフェラーは、イースタン航空の開業資金として1万ドルを提供した。・・・(中略)・・・。
 翌1939年、ジェットエンジンの将来性を確信したローレンスは、父をくどいてロックフェラー家の金をマクダネル社に投入した。こうして彼は、航空産業の分野で最も有望な2社の筆頭株主となったのである。 (p.220)
 ロックフェラー家と軍需産業がダイレクトにタイアップしたのである。この時点で、アメリカ国務省は、戦争というビジネスを定期的に仕掛ける殺人機関への変貌を確実なものにした。
 アイゼンハワー大統領がアメリカ国民に、「軍産複合体(ミリタリー・コンプレックス)の暴走に気をつけよ」 と良心の片鱗を見せた発言をしたのも、国家権力と国家財閥の癒着関係が、もはや解消できないステータスにあったことを受けてのこと。

 

 

【ジョン・D・3世(ジョニー)とジョン・D・4世(ジェイ)】
 ジョニー (1906-1978) は、ロックフェラー一族の気力に恵まれ、60歳を超えても公式行事への出席とロックフェラー財団のハードなスケジュールをこなし続けた。・・・(中略)・・・彼のあだ名は未だに「ミスター・アジア」であって、・・・(中略)・・・。彼のアジアへの関心を、息子のジョン・D・ロックフェラー4世 ―― 「ジェイ」と呼ばれた ―― に譲り渡した。 (p.269)
 その後、ロックフェラー家の主導権争いは、5男のデイッビッドとジェイの間で繰り広げられているらしいことは、副島隆彦さんの著書に記述されている。
    《参照》  『アメリカに食い尽くされる日本』 森田実・副島隆彦 (日本文芸社)
 いずれにせよ、石油で世界の覇権を握っていたロックフェラー家は、近年、世界中で新たな油田が開発されている状況の中で、もはや世界のスタンダードたりえないのは既定の事実である。 
 アメリカン・スタンダードの内実は、ロックフェラー・スタンダードだったのである。
 日本は、アメリカン・スタンダードから離れて、自立せねばならない段階に来ている。
 
 
<了>