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 前作の、 とっぴもない小説・『蜥蜴』 に続いて、またも破天荒な短編小説集の第2弾・・・・らしい。
 前作では、異例の長さの “まえがき” だったけれど、この作品は “あとがき(解説鑑賞)” がやたらと長い。前作の “まえがき” が14ページだったのに対し、この “あとがき” は、なんと43ページである。3次元世界の常識を超えた異次元世界をも “我がフィールド” として生きているらしい著者なので、この程度の常識破りな企画など普通にできてしまうことなのだろう。
 “あとがき(解説鑑賞)” には、本文(小説)の背後に込められている意匠がテンコモリ解説されている。「読者が楽しんでくれればいい」 とは書かれているものの、前作の経験から、作品に込められている意匠にあまりにも掠りもしない読者の多さに、著者はややうろたえていたのではないだろうかと、老婆心ながら推察している。
 解説である “あとがき” と “本文” を絡めて読むならば、より深く作品を鑑賞できることだろう。

 

 

【○△□な会話】
 『風の子』 というタイトルの短編。ギャグの応酬である。風の子、又ズレ衛門とカエルの会話。
「カエルさん。そんなに悩むと、免疫力が落ちて風邪引くよ。カエルが風邪引くと、どうなるの。脱腸になったらどうなるの」?
「余計なお世話だ。今頃の子はませてるね。カエルが風邪引くと、蟇(ひき)ガエルになるんだ。しかし、コルゲリコーラという、カエルの特効薬があるから、まったく心配ない。それから、カエルが脱腸になると、 『美虎頭(ビートラズ)』 という、虎刈り頭のバンドの歌を歌う。 『ダッチョ、イエーイエー、イエ。ダッチョ、イエーイエー、イエ。脱腸癒えー、癒えー、癒えー』 それで、ことごとく脱腸が癒える。だから、何の心配もないんだ。わかったか、この又ズレ衛門」  (p.58-59)
 ・・・・・・・

 

 

【カフカの世界】
 『カフカ』 という短編が収められている。友達となった狸とカフカの会話。
「わかるものは可。わからないものは不可。それが、一つの作品に交互に出て、読む人は、可不可(カフカ)の状態になります。そして、実は書いた私も、可不可(カフカ)なのです。
狸は言った。
「なんだか、狐につままれたような話しだ・・・」
「それを言うなら、狸に化かされた話でしょう」
 とカフカは答え、狸は納得して笑った。      (p.84)
 カフカや阿部公房といった作家をテーマに研究したがっている大学生は、昔も今も少なからずいることだろう。大学時代、阿部公房を卒論のテーマにしていた先輩の討論会に顔を出さざるを得なくて、『密会』 と 『箱男』 を読んだことがあるけれど、その時以来、そもそもオツムが強靭にできていないチャンちゃんの、カフカや阿部公房に関する感想は、「あなたたちの話、チンプンカンプン」、で固着している。
 チャンちゃんのような素直な感想を抱いていた人々は、著者が “あとがき” に書いている解説を読んで、「安心した」というか、「だよねぇ~」って感じで納得できる思いに満たされるのではないだろうか。
 このような小説なのに、後世の評論家が、無理矢理、その中に意味を読み取ろうとするから、おかしなことになるのです。
 小説が、人間の表現する芸術の一つであるとするならば、その神髄は、物語の面白さだけにあるのではなく、文体の波動や気や、文章に宿る詩心、そして、その奥にある魂の高貴さにあるはずです。そのことさえ分かっていれば、カフカの小説が、人類史に残る、傑作のような扱いを受けるものかどうか。自ずと分かるはずです。 (p.167)

 

 

【戸渡阿見作品の世界観】
 戸渡阿見作品には、完璧な人格は登場しません。神様ですら、日本の 『古事記』 に登場するキャラを、もっと親しみ易くしたものです。つまり、一神教にも、仏教にも、ギリシャ神話にもない、明るく楽しい日本的神観に基づくのです。それで、人も神も、どこかずっこけ、どこか間が抜けています。にもかかわらず、たくましさや楽しさ、また悲しさや淋しさが同居した人間や多神教の神々の本質が表現されています。
 そう考えると、戸渡阿見作品の多くに、ギャグや下ネタが登場するのは必然なのです。日本神話にある岩戸開きの段の、宇受売之命(うずめのみこと)のストリップダンス。胸はおろか、陰部まで露出したので、神々は大いに咲(わら)ったと記されています。「咲」を、わらうと読ませているのです。
 ・・・(中略)・・・。
 文学には、赤裸々な欲望や心の影を描くために、性描写は避けて通れません。しかし、作者はこの神道の神々の世界こそ、日本文化の中心となる精神構造だと信じます。だからこそ、岩戸開きの神々のように、それを下ネタとして明るく、軽く、品よく、笑いに変えて描くのです。そこに、生きて躍動する「人間の真実」と、明るい神道観による、人間と現世の「絶対的な肯定」があります。 (p.146-147)
 日本的神道観に従えば、「神に近い聖女であるならばこそ、娼婦の心を有する(理解できる)はず」 という解釈が成り立つ。しかし、明治維新以来、西洋化の影響を受けて表向きの倫理観に従う人々は、自ら日本人本来の神道観から離れてしまっており、やや誤った観念の壁に包囲されていることに気づいていない。
 ふと、「ビートルズは、近代化を完了しつつあった当時のイングランドの中で、その土地古来の “ケルト精神” にインスパイアーされていたのかもしれない」 と闇雲に思いついた。だとしたら、現代の日本人も、近代的世界観を脱腸のついでに少しばかり切除してしまい、日本的神道観に復してもいいのではないか。だからこそ、

 

 『ダッチョ、イエーイエー、イエ。ダッチョ、イエーイエー、イエ。脱腸癒えー、癒えー、癒えー』

 

 牽強付会もここまですれば、中途半端ではないから我ながら素晴しいと思う。
 ビートルズとそのフリークの憤懣を癒し、かつ、カエルから思考停止に代替された 「感謝の言葉」 を受け取ったとしても過分ではない。 
 
<了>

 

 【追記】  

 この本が、「社団法人日本図書館協会選定図書」 に選ばれたそうである。

   《参照》  深見東州・著の読書記録