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 最新メディアを駆使したビジネスを行っている著者の、生き方としての結論は、本書の副題に顕わされている。
 時代の動向が分かるので、興味深い書籍である。初版は2006年。

 

 

【携帯トリプルX】
 携帯トリプルXとは、いわゆる携帯電話のことだが、しかし、それはすでに単に電話ではない。 (p.29)
 メール、ブラウジング、ラジオ、テレビ、カメラ、GPS付き、財布機能等を持つ複合機を意味している。

 

 

【インターネットはあくまでもバックテクノロジー】
 インターネットは、所詮、携帯トリプルXのバックテクノロジーに過ぎないことがだんだん分かってくるだろう。人々の生活を激変させるのは、インターネットではなく、携帯トリプルXだ。インターネットは所詮、技術なのだ。 (p.30)
 日本以外の国々ではPCが小型化するイメージで携帯電話が進化してきたけれど、指先が器用な日本人は携帯電話がPC化するイメージで高機能な複合機へと進化させてきた。
 著者は、PCではなく、進化した携帯電話(携帯トリプルX)こそが、人間のライフスタイルをつくる道具であると考えている。後発的にIT環境に参入してきた女性と若者は、圧倒的に携帯トリプルX派なのだから、その予想も頷ける。即時性というスピード要素においても、PCは携帯に及ばない。

 

 

【次世代インターネット】
 インターネット上のIDであるIPアドレスも現行のままでは不足し、今の規格であるIPv4(ヴァージョン4)からIPv6(ヴァージョン6)になれば、事実上無限でアドレスをマネージメントできるので、どこかのタイミングで、全てのユーザーはインターネットのヴァージョンを上げなければならないことになるのは確実だ。 (p.43)
 次世代インターネットにシフトされれば、PCのみならず、インターネットに紐付く全ての家電製品がIPアドレスを持つようになり、洗濯物の乾き具合から、冷蔵庫の中身の管理・受注・発注まで自動的に行えるようになる。
 ということは、携帯電話会社が、本体を安く売って通信料で稼ぐように、コンビニが冷蔵庫を安く売って、食品補充配達で稼ぐ、というようなことが起こるようになる。・・・・・。高齢者世帯ではいいだろうけれど・・・。

 

 

【著作権は保護すべきなのか開放すべきなのか?】
 守ろうが開放しようが著作権者の自由にすべきだ。
 なぜ自由にできないのか。
 それは、コピーはすべて悪いことであるという前提に立っているからに他ならない。本当にそうなのであろうか? (p.65)
 著者は、ディズニーがそうであるように、映画などのコンテンツ媒体での収益より、コンテンツに含まれるキャラクター商品などのロイヤリティーで収益を目指す方向に向かわざるをえない、というふうに記述している。
 コピーのしやすさは、消費者の最も望むポイントであることは間違いない。

 

 

【記録メディアの勝敗を決するもの】
 どんな時代でも、次世代記録メディアの勝負は「コピーしやすいほう」 が勝つものである。DVDの勝敗は間違いなくDVD-Rが勝つ。音楽もレコードよりCD、CDよりデータファイルが勝つということになる。・・・(中略)・・・。次世代DVDのブルーレイとHD-DVD戦争も、わざとコピーしやすくしたほうが結果的に勝つ可能性が高いといえる。 (p.68)
 昔のVHSとベータの戦争は、メディア機能としての差異は小さすぎてコピーのしやすさという基準ではその決着を判定できない。メーカーの営業力が勝敗を決したらしいけれど、この時代は今日のようにインターネットは普及していなかった。次世代DVDのブルーレイとHD-DVD戦争は、欧米の主要メーカーがHD-DVDを採用したと報道されていたけれど、それで決着が付いたことにはならないだろう。
 

【自分を発信する場】
 アイデンティティーの希薄な人々にとって、自分を発信できる場はとても重要である。それが、カラオケから、携帯電話やメール、カフェでのお話、ブログやコミュニティーのソーシャル・ネットワーク・サービスなどのインターネット・トレンドに移り変わり、多くの人はいまも真剣に自分を発信できる場を探している。 (p.72)

 

 

【アメリカ文化の衰退】
 複合文化連合体となったハリウッドを除くと、アメリカ文化は突出して世界に飛び出しているわけではない。音楽もアートも、新しい文化のトレンドは、今後アメリカから出てくることは少ないだろう。アメリカ文化の特徴は、言わば合理的にまとめられたミックス文化だったが、現在、世界でその機能はインターネットが担っている。(p.105)

 

 

【韓国の国家コンテンツ政策】
 経済ショックの後、韓国は映画における国家コンテンツ戦略の中心に実写をおいた。・・・(中略)・・・。「冬のソナタ」 のような大ヒット・コンテンツが生まれ、韓国への渡航者数はうなぎのぼりになった。これは韓国で1998年末に、ようやく日本のコンテンツを流すことが認められたため、2002年のワールドカップ以降、日韓でコンテンツ流通が本格的に盛んになり、文化戦争が起こるだろうことを前提にして取られた韓国のコンテンツ政策だ。結果はワールドカップともども日本の惨敗である。 (p.80)
 この書籍の後半では、近年のイングランドの復興も国家文化政策によるものであることが詳述されており、日本が韓国やイングランドのように文化政策によって国力を復興しようと政策をシフトしていないことを憂慮する記述になっている。
 また、韓国はITではなく、すでに CT = カルチャー・テクノロジー(文化技術) を国家をあげてプッシュしている。 (p.82)
 CT は技術的な側面で IT と近いが、IT の亜流ではない。CT は韓国で生み出された概念で、アメリカは芸能産業、英国は創造産業などの用語を似た概念で使用している、とも 「東亜日報」 は書いている。 (p.83)
 分からないではないけれど、文化技術という造語には、かなり違和感がある。「国家を上げて日本の文化を営業してまで、日本の経済を回す必要があるのだろうか?」 とも思うのである。
 日本には、現在の世界が必要とする超高度な技術がてんこ盛りあるはずである。技術で、地球と諸外国の人々を救った後に、その恩恵として日本人と日本文化に興味を持ってもらえば良いのではないだろうか。順序とすれば、日本の繁栄よりも、地球の救済の方が先であるべき・・・。そう思いながら読んでいたら、以下の記述にぶち当たった。
 では、その文化とは一体何なのか? 伝統文化ではなく、新しい文化とは、どこにあり、何なのか? 本書では、それをさまざまな事象をもとに書き記してきた。・・・(中略)・・・。世間を見渡すと、国家がなくなっても文化が生き残っているのは実証済みだ。直面する様々な危機が来ても、我々を支えてくれるのは経済ではなく、文化であると僕は信じている。(p.113)
 なるほど、文化という用語に対する認識に、ズレがあった。
 そして、最後の文章であるけれど・・・・、私は信じていない。そこまで文化を過信できない。

 

 

【ハイブリッド・スタイル】
 ハイブリッドこそが日本のスタイルであり、ハイブリッドこそが日本の新しい文化なのである。・・・(中略)・・・。
 その背景には、IT によって合理化、効率化した最大公約数的なものと、より個人に近いものとが、ハッキリ分散化されたことが大きい。また、時間的空間的束縛からの脱却も大きい。 (p.133)
 だから、片手手間の職ではなく、マルチスペシャリストになること、不安定な時代だからこそ自分の職業も分散すべきである、と書かれている。

 

 

【IT】
 IT は未来を切り開く力はもう持っていない。未来を切り開く力は、言うまでもなく創造や想像である。それは、現在の売り上げや動向ではなく、人々の考えを理解できるかどうかだけである。そしてこれは、IT 化できるものではない。IT で簡単に読み取れる情報ほど、あれにならないものはない。なぜなら、本当に大切なものは、インターネットに流れたりしないものだから。 (p.177)
 んだ。 IT はあくまでも道具。それだけのこと。
 
 

  高城剛・著の読書記録

     『モノを捨てよ世界へ出よう』

     『ヤバいぜっ! デジタル日本』

 
<了>