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 何度もブラジルを訪れている著者。日系ブラジル人と接しつつ、自他の心境が記述されている。
 著者は、1966年生まれ。THE BOOM というグループのヴォーカリストだそうである。

 

 

【今の日本人と我々は違う】
 「前に日本に行ったとき、電車で隣に座った人に自分の持っていた食べ物を勧めてあげたんだ。すると、その人はいぶかしい顔をして結構ですと断った。私はびっくりした。隣の人に物を振る舞うのはここでは当たり前のこと。昔は日本でもそうだった。とても悲しい気分になったよ。電車の中での若者達のマナーの悪さも信じ難いものだった。日本は変わってしまった。何か大事なものをなくしてしまった」
 僕はなんと答えていいかわからなかった。約束の時間に遅れてきてからいままでの数時間、原さんはきっと僕の立ち居振る舞いや言葉使いに 「ダメな日本」 をたくさん感じ取っていたに違いない。穴があったら入りたい気分になった。 (p.33)
 チャンちゃんも、著者と同様に、サンパウロの現地で日系人に接して、痛く恥じ入ったことがある。
  《参照》  『水人』 中里尚雄 (扶桑社)
          【マウイ島のハイクという地名】

 

 

【ブラジル移民の原点】
 1908年6月18日、初のブラジル移民船 「笠戸丸」 がサントス港に到着した。現地農場と労働契約を結んだ契約移民781人と自由移民10人が乗っていた。その中に1歳8ヶ月の中川トミさんもいた。100年を経て計24万人の日本人がブラジルに渡った。子孫の日系人は約150万人に上り、世界最大の日系人社会を築いた。
 著者がトミさんに会ったとき(2005年)、トミさんは 「私はとにかく働きました」 と繰り返したという。
 最初の船でブラジルに渡った、熊本県出身のトミさんは、著者に会って数ヵ月後、亡くなられたそうである。
 皇太子殿下がブラジルを訪問していたニュース映像を見ながら、今年がブラジル移民100年の区切りだったことを自覚していなかった。恥ずか・・・・。
 明治時代にハワイへの移民が始まり、ついで北米地域にも移民が渡ったけれど、アメリカ政府の排日移民法施行によって、ブラジルが移民先となっていったそうである。

 

 

【 「敗戦はデマだ」 と信じた日系人】
 1945年8月、終戦。ブラジルで最も激しい戦争の悲劇は、この後に起きた。日本軍の快進撃を伝え続けた大本営発表が一転、玉音放送で敗戦を告げた。だが、「日本は勝っている」 と移民の多くが敗戦を受け入れられなかった。日本勝利を信じる人たちは 「勝ち組」 と呼ばれた。トミさんも夫とともに 「敗戦はデマだ」 と信じた。・・・(中略)・・・。「当時は周囲も勝ち組ばかり。それが当たり前だった」 と渡辺さん。一方で 「勝ち組」 と、「負け組」 と呼ばれる敗戦認識派が対立。テロ集団も誕生し、日本人同士の殺し合いに発展した。46年から47年にかけて、23人の日本人が暗殺された。 (p.96-97)
 何故テロにまで発展してしまったのか、その詳細は記述されていない。
 戦前は皆、日本に帰ろうと思っていたけれど、敗戦を自覚した戦後はブラジルで生きてゆくことを決めたという。
 今日のブラジルでは、日本人はブラジルに美味しいお米をもたらした勤勉な民族として認知されている。
 ブラジル経済が復興してゆく過程において、日系ブラジル人が重要な役割を担うようになることだろう。
 
 
<了>