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 サーフィンの世界では世界的に名の知れた著者というだけあって、さりげない文章の中に、優れた人間性と優れた感性を読み取ることができる。


【悪口は苦手】
 決していい人ぶって言うわけじゃないが、僕は人の悪口が苦手だ。悪口は聞いても聞こえないふりをする。あるいは悪口を言っている人のそばには行かないようにしている。 (p.28)

 ニューヨーク・ヤンキースのゴジラさんも、これと同じことを言ってたっけ。成功を志す人々ならば、ネガティブな表現に関しては、三猿が基本ですね。


【海を感じる】
 だが断言してもいい。海や自然には、人間には計り知れない叡智や意思といったものが宿っているのだ。それだけではない。僕は海の感情や気持ちのようなものを感じるときすらある。・・・海から発せられる<気>のようなものだ。ある海域ごとに海域特有の<気>が感じられるのだ。 (p.35)

 この部分だけでなく、著者の記述の中には、直感的なことの大切さを含めて、スピリチュアルな記述が何箇所もある。ハワイを生活場所に選んで波とともに生きているからなのであろう。自然の中に溶け込めるほどに感性がとっても鋭敏になっているようだ。


【自然人】
 僕の中で眠っていた血液も「待ってました」と、このときとばかりに身体中を勢いよく巡り始める。なんだか、身体がジンジンするなと思って空を見上げると満月だったなんていう話は僕にとったらしょっちゅうある話なのだ。 (p.133)

 私はこのような体験ができる著者をこの上なく羨ましく思う。著者の体は、本当に自然と融合しているらしい。東京でパーティーに出ているだけで吐いてしまうとか。人間は本来、誰であれ、著者の体のように、自然や宇宙の天体と一体であることを感じることができるはずである。
 著者は、サーフィンのプロだから、タイトルに 「水人」 としているけれど、これにこだわらなければ、「自然人」 としたほうがより相応しい感じだ。


【マウイ島のハイクという地名】
 僕たちが7月まで住んでいたハイク(HAIKU。語源はどうも、あの俳句らしい。なにしろこのハイク市の電話局番は575なのだ)  (p.128)

 今から80年以上も前に、日系の移民たちが住みついた場所だったのだろう。当事の日本人達の文化的望郷の念に感心するというか、襟を正さねばと思ってしまう。ブラジル、サンパウロ市内、赤い鳥居で立て分けられた日本人町に長年住んでいる人々の、日本を思う一途な心に、私自身、痛く胸を刺されたことがあるからだ。「私は彼らほどに日本を愛しているのか・・・」。そんな自問に、「はい」 とは答えられず、しばし思考停止してしまっていたものだ。


【一瞬に永遠を見る】
 自然をあるがままに受け入れ、波や風と調和していけば、おのずと100%に近い技が出せる。そのこと自体が僕にとっての喜びであり勝利なのだ。完璧な技が決まった瞬間、僕はそこに真の自由を感じる。時間で言えば、ほんのコンマ何秒かにすぎないが、僕はその一瞬に永遠を見る。 (p.87)

 私は、サーフィンをやったことはないけれど、「一瞬に永遠を見る」 という表現がなぜか良く分かってしまう。別のスポーツや芸術の分野でも、それに類する体験が多く語られているからだ。一つのことに没頭して、努力なり修練を積み重ねてきた者のみにおとずれる一瞬のようである。
 サーフィンであれ何であれ、世の中に貢献できているか否かは、実は重要なポイントではなくって、どのようなことの中にも、 “永遠が込められている一瞬” があって、それを実感するためにこそ人生があると言い切ってしまうのは、言いすぎであろうか。
 若い頃は、誰だって “永遠” に憧れ、この言葉を心の中で何度も反復していた時期があったはず。その “永遠” を忘却してしまっているか、あるいは身近な幸せに代替して満足してしまっている人々は、おそらく生涯にわたって 「一瞬に永遠を見る」 ことはないと思う。限りある人生の中に “永遠” を見たい人、感じたい人は、やはり何かに賭けなければならない。
 なかば永遠とも思われるような、精神の集中、鋭意なる思念の連続、飽くことなき肉体の鍛錬の積み重ねなどが担保となって、限られた一瞬の中に永遠が開示されるのではないか。代償(担保)なくしておいそれと永遠の輝きなどに出会えようはずもない。



同著者の別の読書記録

 『Descention ~自らを下げる~』 中里尚雄  ぶんがく社

 

 

<了>