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 英国の産業革命から始まった蒸気機関車の線路が、植民地経営のインフラとして世界中に敷設されてゆく帝国主義の時代。それらが誰のいかなる思惑によってなされたのかを辿る視点で記述している。
 その他にも、娯楽的な記述を含んだ読み物ではあるけれど、あまり学びはない。


【世界初の線路】
 スティーブンソンは自分の作った蒸気機関車ロコモーション号を、ためしに馬車鉄道で走らせてみた。1825年、ストックトン~ダーリントン間のことだが、これは見事に成功した。この成功に乗って、1830年にリバプール~マンチェスター間が開通するのである。 (p.24)
 リバプール~マンチェスター間45キロ。運河があったけれど輸送量の限界だった。輸送品目は綿花と綿製品。

 

 

【レールの幅】
 英国内に現れた線路のレール幅 (ゲージ) はバラバラだった。
 イギリスはゲージの統一を求めた。・・・(中略)・・・1435ミリという長さだった。これが 「標準軌」 と呼ばれるゲージの幅 (p.26)
 英国はゲージ不統一による非効率を、あえて植民地のインドに持ち込んだらしい。インド全土が一体となった反乱を抑止するために。いまでもインド鉄道のゲージはバラバラである。

 

 

【カンジーの原点】
 インドと同様、英国の植民地だった南アフリカに渡ったガンジーは、弁護士としてこの地に21年間もいたのだという。そこで、乗車拒否という人種差別に遭遇したのが、その後の活動の原点になったとか。 (p.36)

 

 

【パリでは飲まれていなかったボルドーワイン】
 鉄道が未発達で、パリからフランスの地方へ行くのには馬車が一番便利であった。フランス南西部の港町ボルドーへ行くにも、同じである。・・・(中略)・・・。パリジャンはパリの比較的近くにあるブルゴーニュワインくらいしか知らなかったのである。・・・(中略)・・・。では、ボルドーワインを誰が楽しんでいたかというと、おもにイギリス人だったという。 (p.156-157)
 ボルドーの港から船荷で輸送すれば、パリもロンドンも距離はそれほど変わらない。

 

 

【Sバーンの幽霊駅】
 ベルリンの近郊都市線であるSバーンとは、東京で言えば山手線や中央線のようなもの。ベルリンの東西分割で、東側領地内に位置する5つの駅は、乗り降りできない幽霊駅になった。
 いまは新生ベルリンの中心になっているポツダム広場駅も、そうした幽霊駅の一つであった。 (p.61)
 ポツダムは、1945年7月26日、敗戦国・日本に対して発せられた共同宣言が採択された都市である。日本はこれを無視したので、さらに原爆投下、ソ連の参戦を招き、8月14日に受諾し戦争は完全終結することになる。

 

 

【ブレスト・リトフスク】
 ブレスト・リトフスクというのは、鉄道によるヨーロッパ圏とロシア圏の分かれ目でもある。ソ連とポーランドの国境にあり、この地より東の鉄道は広軌になる。西側のヨーロッパは標準軌である。 (p.69)
 ドイツとソ連の講和条約が締結された所。

 

 

【ロシアとスペイン】
 ヨーロッパの標準軌ではなく、あえて広軌を採用したロシアとスペイン。
ナポレオン戦争の惨禍の再現である。そこでフランスの列車が入れないよう、スペインは広軌を選んだのである。
 ロシアが恐れたのは、フランスではなくドイツである。 (p.189)
 だったら、ヨーロッパの覇権を争っていた、モルトケ率いる参謀本部が立案したドイツ鉄道とナポレオン率いるフランス鉄道が、何故同じ標準軌を採用していたのか? という疑問が生じてしまう。
 どちらも、「勝つのは、こっちだ。支配した暁には都合がいい」 と思い込んでいたということか。

 

 

【満州鉄道】
 盧溝橋事件、柳条湖事件について、著者はいずれも関東軍の謀略であるという説を採用しているけれど、これは断じて正しい記述ではない。
 NHKの世界史講座をも担当している著者の世界史が、このような杜撰な見解を記述しているのだから、呆れる。もう一度勉強しなおして、正しい記述に改めるべきであろう。
    《参照》   『中国を永久に黙らせる100問100答』 渡部昇一 (WAC)
              【問88 シナ事変は日本の一方的な侵略だ】

 

<了>