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 しばらく古代史物からは遠ざかっていたのに、最近読んだ本の中にあった、「蘇我入鹿は仏教徒ではない(『人と神と悟り』 日垣の庭宮主(星雲社)」 という内容の記述が頭に残っていたから、この書籍を読んでしまった。
 著者は、私が学んだことのある神道界のスピリッチュアリストが語る日本神霊界の謎解きに、最も類似した論考を書いている人である。
 歴史学者の定めた古代史というのは、その時代の支配者が書き残したストーリーが正しいという前提でそのまま単純に解釈したものなのだから、それが歴史の完全な真実であると考える方がデタラメというものである。
 「蘇我氏の正体」 などとタイトルされているから、蘇我氏は極悪人なのか! と思ってしまいそうであるけれど、そんなことはない。「日本建国の祖の系譜にある人物」 という論旨で記述は進められてゆく。

 

 

【藤原氏の始祖となった藤原(中臣)鎌足】
 広辞苑には、「大化元年(645)夏、中大兄皇子(のちの天智天皇)を中心に、中臣鎌足ら革新的な朝廷豪族が蘇我大臣家を滅ぼして開始した古代政治上の大改革」 と書かれている大化の改新。
 聖徳太子と組んで日本に仏教を根付かせた蘇我氏サイドに対して、日本古来の神道基盤を守った中臣サイドという対比は、とんでもなく大きな誤解になる。
 『藤原氏の正体』 (東京書籍)の中で詳述したように、藤原氏の始祖となった中臣鎌足は、日本に人質として来日していた百済王・豊璋その人であったと、私は見ている。
 少なくとも、藤原氏の素性が怪しいと思われるのは、 『日本書紀』 の中で系譜をいくらでもごまかし、あるいはかざることができただろうに、中臣鎌足以前の藤原氏の活躍が、ほとんど見られないことだ。中臣鎌足は、「唐突」 という言葉が相応しい格好で、歴史に登場している。   (p.40)
 8世紀の段階で歴史上の勝者となった藤原氏。その影響下で編纂された 『日本書紀』 は、政敵であった 「蘇我氏の正体」 と 「輝かしい業績」 を綺麗さっぱり歴史から抹消する目的で書かれている。

 

 

【外交方針を巡っての蘇我入鹿暗殺】
 中臣鎌足を百済王・豊璋と考えることで多くの謎が解け、辻褄があってくる。・・・(中略)・・・。
 ヤマト朝廷の外交政策は、5世紀以来、百済を重視し、その伝統は6世紀まで続いた。だが、7世紀の蘇我の王権は、聖徳太子が中国大陸との交流を重視し、蘇我氏もまた、かつての敵対国・新羅との間に交流をもとうと働きかけていたから、それまでの偏った方針をあたらめ、大きく舵を切ったことは間違いない。
 じつを言うと、乙巳の変の入鹿暗殺の最大の目的は、このような外交方針を元に戻すことだったのではないかと思える節がある。  (p.85)

 

 

【蘇我≠悪】
 『日本書紀』 は聖徳太子の末裔を滅亡に追い込んだのは蘇我入鹿だったといい、梅原猛氏はこの 『日本書紀』 の記述に対し、「ただし、黒幕は中臣鎌足」 としただけで、「蘇我=悪」 という 『日本書紀』 の示した勧善懲悪の世界から抜け出すことはできなかった。
 そしてもはや、このような問題に拘泥している暇はない。蘇我氏が「鬼」とつながっていることこそ、大問題である。「鬼」とは、ようするに「神」と同意語だからである。    (p.143)
 ここから、出雲とヤマト朝廷を巡るストーリーの中で、蘇我氏のルーツ解明に向かってゆく。
 『日本書紀』 は明らかに出雲の神々を「鬼」とみなしている。
 それだけではない。
 大己貴命の幸魂は大物主神といい、出雲からヤマトに移され三輪山(奈良県櫻井市)で祀られるが、大物主神はヤマト朝廷がもっとも丁重に祭った神であった。いわば、ヤマトにおける出雲神の代表格であり、その大物主神の 「物」 が 「鬼」 の 「モノ」 であるところが重要である。(奈良時代以前、「鬼」は「オニ」とは読まずに「モノ」といっていた)。 (p.150)

 なぜ蘇我入鹿が出雲神スサノオとかかわりを持っていたのだろう。スサノオの祀る出雲大社の真裏の摂社が「素鵞(そが)社」と呼ばれていたのはなぜだろう。  (p.233)

 

 

【新羅王になった倭人・脱解王の謎】
 『三国史記』 をひもとくと、実に興味深い人物に行き着く。それが、新羅王・脱解なのである。
 脱解の出生は次のようなものであったという。すなわち、倭国の東北千里の多婆那国(不明。ただし、どうやら丹波である可能性が高い・・・)   (p.236)

 脱解王は倭人であり、しかも、脱解王の伝説が日本でも語り継がれ、これをモデルに「スサノオ」の神話が生まれたのではあるまいか。
 「スサノオ=脱解王」の蓋然性を高める要因は、いくつかある。
 まず第一に、脱解王が「鍛冶」を得意としていたと記録されていることだ。    (p.243)

 

 

【武内宿禰=天日槍】
 脱解王の末裔が武内宿禰(天日槍)であり、だからこそ、武内宿禰は「父の国」「祖国」に帰ったあと、縦横無尽の活躍をし王位をうかがうも、周囲は「日本人(倭人)ではない」と拒否した・・・そういう推理が成り立つわけである。
 また、のちにその御子たちが天孫降臨した(つまり九州南部に落ち延びたのだが)のちの日向の地で、浦島太郎の神話は再現されたのである。   (p.249-250)
 ポイントだけ書き出しておいたけれど、本文内にはポイントを繋ぐ詳細な記述がされているのは言うまでもない。
 神功皇后を祭っている、気比、宇佐、住吉などの神社について知っている人にはわかりやすいだろう。
 古代史に興味のない人は、「何のこっちゃ、訳わからん」 と言うのだろうけれど、しかたがない。

 

 

【国譲りと天孫降臨 : 伊勢の祭神】
 本書の主題とはややそれるけれど、書き出しておこう。
 ようするに、トヨ(神宮皇后)や応神の南部九州への逃避行こそが、出雲の国譲りであり、天孫降臨神話の本当の姿だったわけで、その舞台となった鹿児島の地で、サルタヒコと武内宿禰の伝承が混同されていたことは、むしろ当然だったということになる。  (p.218)
 ヤマト朝廷がもっとも恐れた祟り神が、「トヨ」 であったことになり、彼らは必死になって祀ったに違いない。
 では、どこで「トヨ」は祭られていたのだろう。
 それが「伊勢」であろう。
 天孫降臨に際し、皇祖神を先導したサルタヒコは、そのあと伊勢に向かい、服従の仕草をして海に沈んだ。この説話は、伊勢神宮の本当の祭神を知るための、大きなヒントになってくるのではあるまいか。
 というのも、サルタヒコは天日槍であり、男性の太陽神である。これに対し、「トヨ」は、伊勢神宮の外宮に祭られる「豊受大神」そのものであろう。    (p.228)
 

<了>