やや期待はずれ。著者の力量がどうのこうのではなく、本書が対象としているアフリカのストリート文化は、体系的な文化として多面的に語りうるような深さなど、最初からないからなのだろう。
逆に、日本ほど語りうる材料に満ちた歴史と伝統のある文化国家は世界には他にないのだから、「あたりまえよね」、などと思いついてしまう。
逆に、日本ほど語りうる材料に満ちた歴史と伝統のある文化国家は世界には他にないのだから、「あたりまえよね」、などと思いついてしまう。
【アビジャン】
アフリカのコート・ジボアール(象牙海岸)の首都:アビジャンが、本書のテーマ都市である。フランスの植民都市として始まり、今日では「西アフリカの交差点」と呼ばれるほどの大きな都市になっている。しかし、埋められない大きな社会格差が、ストリート社会を形成している。
著者は、かれこれトータルで5年間ほどアビジャンで生活していた、と書かれている。
日本人も、ストリートでは白人に分類されるそうである。
商業を牛耳るレバノン人 (p.54)
アフリカのコート・ジボアール(象牙海岸)の首都:アビジャンが、本書のテーマ都市である。フランスの植民都市として始まり、今日では「西アフリカの交差点」と呼ばれるほどの大きな都市になっている。しかし、埋められない大きな社会格差が、ストリート社会を形成している。
著者は、かれこれトータルで5年間ほどアビジャンで生活していた、と書かれている。
日本人も、ストリートでは白人に分類されるそうである。
商業を牛耳るレバノン人 (p.54)
とあるのが意外だけれど、これは重要だ。
トヨタ、スズキなどの日本車も少なからず走っていると言う。
トヨタ、スズキなどの日本車も少なからず走っていると言う。
【ストリート】
<ヌゥシ>の狭義は “ストリートで話されている言葉” つまりスラングである。
ストリート<外>の人々は、ストリート<内>の若者たちに<ヌゥシ>というラベルを貼り付けることによって、両者のあいだに象徴的な壁を築いている。そしてこの壁の内側では、若者たちが<血の兄弟>、<右腕>という呼称を通じて結びついている。 (p.30)
アメリカの映画で観るようなスラム街の情景を、そのまま当て嵌めてよさそうだ。<ヌゥシ>の狭義は “ストリートで話されている言葉” つまりスラングである。
【ゲットー】
「ゲットー」という言葉はジャマイカのレゲエとともにやってきた。レゲエはジャマイカの首都キングストンに散在するゲットーの若者たちによってつくられた音楽だ。ボブ・マリーが「目を覚ませ、立ち上がれ!」と歌いかけるとき、その声はゲットー・ユースとしての誇りに満ちあふれていた。 (p.56)
その誇り、今日では、どうなっているかというと・・・
彼らは、自分たちに貧困を押し付ける政治・経済システムを「バビロン・システム」と名づけ、レゲエという音楽を通してそれに徹底的な攻撃を加えていった。ボブ・マリーの登場で頂点を極めたレゲエは、彼の死後その精神性をじょじょに失い、今ではトロピカルでブラックでちょっとおしゃれな商業音楽として人気を博している。 (p.213)
つまり、去勢されちゃっている・・・・。
【ムサ・フランス語 と ヌゥシ】
コート・ジボアールの公用語はフランス語。しかし、
コート・ジボアールの公用語はフランス語。しかし、
複数の部族出身者が混住するメトロポリタン、アビジャン。そこには部族の数だけ言語が存在する。それら諸言語の垣根を越えることのできる共通語として、標準フランス語、ムサ・フランス語、ジュラ語が存在しているのである。 (p.104)
民衆化されたフランス語はムサ・フランス語と呼ばれ、アビジャンの日常生活の機微を伝える標準語となっていたのである。 (p.102)
しかし、ムサ・フランス語では “やばい” のがストリートの若者たちである。
民衆化されたフランス語はムサ・フランス語と呼ばれ、アビジャンの日常生活の機微を伝える標準語となっていたのである。 (p.102)
ムサ・フランス語じゃあ、ポリ公にだってこっちの喋ってることが筒抜けじゃないか。俺たちの天敵である警官に分る言葉じゃ、だめなんだ。
結局ストリートにはストリート固有の言葉が必要ということになる。それがスラング “ヌゥシ” なのだ。(p.106)
結局ストリートにはストリート固有の言葉が必要ということになる。それがスラング “ヌゥシ” なのだ。(p.106)
【ルバ】
しかし、武道による心身の鍛錬とは、身体を鍛えた後に、精神をも錬ることであるから、ルバたちが「練り上げた繊細な精神性」を身につけようとしないことには、ストリートを変革することにはならないであろうし、彼ら独自のストリート文化が本物の花を咲かせることはないだろう。
良き方向に向かう可能性すら感じられない状況が長く続くのであるならば、彼らの鍛えられた力は破壊に向かうばかりで、決して創造へとは向けられないだろう。
格差社会変革のためには、彼らだけの力ではどうしようもないのかもしれない。
悪名高い南アフリカの「アパルトヘイト」を打開したのが、アメリカからの巨額な投資だったように、「バビロン・システム」を打開するには、海外からの有意な投資が必要なのではないだろうか。
ルバとはストリートで生き残る術を自らの肉体に求める若者たちのことである。
彼らは自己の肉体を鍛えあげ、戦う技を習得するために、日本の空手や韓国のテコンドーなど武道の道場に通う。 (p.128)
彼らは、身だしなみに細心の注意をはらう。身体をつねに清潔にたもち、汚れのないジーンズ、Tシャツ、スニーカーなどで身を包んだその姿は、不潔の代名詞でもある<ヌゥシ>と対極にあると言えよう。ルバの関心事は、自分をいかに見せるか、自己の存在をどのように提示するか、ということにあるのだ。 (p.146)
武道によって清潔という概念が定着しているだけでも素晴らしいことである。彼らは自己の肉体を鍛えあげ、戦う技を習得するために、日本の空手や韓国のテコンドーなど武道の道場に通う。 (p.128)
彼らは、身だしなみに細心の注意をはらう。身体をつねに清潔にたもち、汚れのないジーンズ、Tシャツ、スニーカーなどで身を包んだその姿は、不潔の代名詞でもある<ヌゥシ>と対極にあると言えよう。ルバの関心事は、自分をいかに見せるか、自己の存在をどのように提示するか、ということにあるのだ。 (p.146)
しかし、武道による心身の鍛錬とは、身体を鍛えた後に、精神をも錬ることであるから、ルバたちが「練り上げた繊細な精神性」を身につけようとしないことには、ストリートを変革することにはならないであろうし、彼ら独自のストリート文化が本物の花を咲かせることはないだろう。
良き方向に向かう可能性すら感じられない状況が長く続くのであるならば、彼らの鍛えられた力は破壊に向かうばかりで、決して創造へとは向けられないだろう。
格差社会変革のためには、彼らだけの力ではどうしようもないのかもしれない。
悪名高い南アフリカの「アパルトヘイト」を打開したのが、アメリカからの巨額な投資だったように、「バビロン・システム」を打開するには、海外からの有意な投資が必要なのではないだろうか。
<了>