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 アメリカの自動車会社フォードの創業者、ヘンリー・フォードの人生の過程が簡略に紹介されている。


【新天地を求めて】
 フォード家は、19世紀なかば、アイルランドからアメリカにわたってきた農場移民だった。 (p.15)
 ヘンリーのおじいさんが家族を連れて、アメリカに渡ったのは1847年。ミシガン州デトロイト郊外のディアボーンにたどり着いた。 (p.16)
 いまでこそ、ディアボーンはフォード自動車本社のある大都市だけれども、当時は森林地帯だった。
おじいさんは、森林を購入し農場経営で生活を始めた。お父さんもその生活を継続していたけれど、ヘンリーは農作業が好きではなかったらしい。農業の機械化を考えることが、後のフォードに繋がっていったらしい。

 

 

【GEで働く】
 新しい仕事はエジソン電気会社のエンジニア。エジソン電気会社は、その名のとおり発明王トマス・エジソンが設立した会社。 (p.38)
 今日のGEである。
 ヘンリーはガソリン自動車を開発するためには、電気系統がポイントになるってことをよく分かっていた。 (p.39)

 

 

【 蒸気 vs ガソリン vs 電気 】
 意外なことに思えるけれど、1800年代は蒸気自動車・電気自動車・ガソリン自動車、いずれが主流になるのか分からない状態だったのだという。結局、石油開発が進んだことが主流を定める大きな原因であったらしい。

 

 

【 『赤旗法』 という名の悪法】
 蒸気機関を主要な動力源として産業革命を遂げたイギリスでは、馬車業者が蒸気バスを締め出すために、「公道を走る自動車は、赤旗を持った人が先導しなければならない」、という信じ難い法律、『赤旗法』 を定めたという。思わず「ウッソー」と言ってしまうけれど、事実である。
 蒸気自動車は鉄の車輪で3~4トンもあったので道路を傷つけたり、機関をいためない為の水質確保やメンテナンスが大変だったこともあり、自動車の主流となるには問題が多かったようだ。
 『赤旗法』 は、産業革命を遂げたイギリスがドイツやフランスに遅れをとる原因となったために、アメリカの 『禁酒法』 と並ぶ悪法といわれている。

 

 

【資金計画】
 フォードといえば、アメリカの大衆車というイメージが定着しているけれど、資金難だったヘンリーは、レーシングカーの作成もしていた。1894年には、当時のワールド・レコード:時速147キロを記録している。
 まず、お金持ち向けの車を作って儲けてから、農民や一般の人たちが買えるような安いクルマをつくる計画だったんだ。 (p.57)
 レーシングカーの成功あたりから、ヘンリー・フォードは成功してゆくけれど、それ以前には、出資者との意見衝突やヘンリー自身のとんがった性格が原因で、2回も会社を建てたり潰したりしている。

 

 

【「価格破壊」をしたT型フォード】
 T型フォードの最初の販売価格は850ドル。当時アメリカ人の平均収入が600ドルだったから、たいていの人はちょっと無理をすれば買うことができた。なにしろ、ほかのメーカーのクルマは2000ドルくらいだったんだから。 (p.64)
 なんと、T型フォードは生産終了まで、19年間(規格は)変わらなかった。 (p.74)
 ヘンリーはT型フォードを組み立てるラインの手間をはぶいて合理化し、・・・・(中略)・・・・価格を850ドルから310ドルまでに下げることができたんだ。 (p.80) 
 フォード生産方式は、ベルトコンベアによる同一規格大量生産方式として、多くの書籍に掲載されている。生活レベルが高まりニーズの多様化してしまっている現在の先進国市場では適さないけれど、巨大人口を抱えるBRICs諸国同時発展段階の世界経済状況では、ふたたび中級品生産に適したフォード生産方式が出現しているはずである。

 

 

【20世紀を代表するビジネスマン】
 1999年、アメリカのビジネス誌「フォーチュン」は、『ビジネスマン・オブ・ザ・センチュリー』 にヘンリー・フォードを選んだ。
 かつて師エジソンも、ヘンリーを高く評価していた。エジソンがヘンリーの成功を見聞きして言った。
「彼はアメリカに車輪をつけたんだ」     (p.82)
 紡績機から始まったトヨタが、自動車づくりを始めた時の立役者である豊田喜一郎は、フォードから生産方式を学んでいた。トヨタは、フォードシステムを乗り越えた「ジャスト・イン・タイム」方式を編み出したのである。
 トヨタを始めとする高品質自動車を生産する日本企業が、21世紀の世界にさらに快適な車輪をつけてゆくことだろう。
 
<了>
 
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