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 「伊勢大輔」、「園女」、「梶原景季の妻」、「一休の母」、「大石主税許嫁お浪」、「清水上の守つま」、「横笛」、「芸妓竹松」、「更科」、「中将姫」、「都藍仙」、「楠木正成の妻」。12人の名女に関する記述である。ここに取り上げられている名女たちの生きていた時代は平安時代から明治時代までバラバラである。
 表紙と裏表紙には6枚ずつカラーの浮世絵が印刷されているけれど、これは明治26年頃に刊行された、浮世絵版の 『日本名女咄』 なのだという。この本のもとと考えられるのが、『本朝女鑑』 や 『日本名女物語』 や 『列女百人一首』 など (p.56) だそうである。

 

 

【名女とは?】
 著者の見解として、あとがきには、このこのように記述されている。
 最初に、私は、「名女」を素晴らしく見事に生きた女性と解すると書きました。それは、誤りであるとは思いません。彼女達が素晴らしくみごとに生きられたのは、彼女たちに深い心があってこそのことであるからです。 (p.157)
 『日本名女咄』 は教育的見地から書かれたのであろうけれど、詳細がほとんど伝えられていない女性も含まれている。
 この著作は、断片的な記述ばかりで、読み物としては決して面白い本ではない。備忘録(美貌録ではない)替わりに、私の興味のあるところを3箇所だけ書き出しておこう。

 

 

【伊勢大輔】
 名女咄なので、これでも女性の名前である。松坂大輔と同じには読まない。
 伊勢大輔というのはいちおう名前なのですが、とはいっても現在の私たちの名前とはちょっと異なっています。この伊勢大輔(“いせのおおすけ” もしくは、 “いせのたいふ” と読みます)という呼び名は、彼女お父さんが伊勢神宮の祭主であり、大輔というのはお父さんの官名から由来しています。
 伊勢大輔は、平安時代中期の歌人です。

 いにしえの奈良の都の八重桜けふ九重に匂ひぬるかな

 この有名な歌は、伊勢大輔の歌です。お父さんの大中臣輔親(すけちか)も、お祖父さんの能宣(よしのぶ)も、皆、歌人として知られています。特に、お祖父さんは勅撰和歌集である 『後撰和歌集』 の選者として有名です。

 

 

【芸妓竹松】
 木戸松子は木戸孝允の妻であり、もとは祇園の名妓といわれた幾松です。『日本名女咄』 の中では芸妓竹松と記されています。
 木戸孝允がまだ、桂小五郎として尊皇攘夷運動を行っていた時、二人は運命的とも言える出会いをします。そして、禁門の変の後、彼女は命を張って桂小五郎をかくまったのです。 (p.101)
 明治時代の書物、『婦女の教育の巻の二』 の 「第3節 立志」の中に、彼女の物語りが書かれている。

 

 

【正成が妻】
 正行(まさつら)は、父(楠木正成)の変わり果てた首を見て、父のかたみの菊水の刀で自害することを決心します。 (p.142)
 死んでしまえば、お父さんの名も失い、主上の御用にも役立つことがないと、お母さんは言葉を尽くして息子を押しとどめ、やっとの思いで刀を息子の手から奪い取ります。 (p.144)
 『大森彦七』 という歌舞伎の演目があるという。
 楠木正成の妻には三人の男子があっとことを最初に書きましたが、実は勇猛な娘もいたのだというお話が歌舞伎の演目にあります。彼女の名前は千早姫。父の仇である大森彦七の命を狙います。
 このお話は 『太平記』の巻第23 「大森彦七事」がもととなっています。 (p.147)
 この本には古語のままの引用がかなりあるので、スラスラとは分からなくって、まいった。古語のままでは古典なんて、チャンちゃんには教養と忍耐が伴わないから、?????だらけでコテンパンに打ちのめされてしまう。千早姫に興味が持てたからには、現代語に訳された 『太平記』 を読んでみたい気がしないでもない。
 
<了>