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 著者は、経営者ではなく研究者としての実績しかない方なので、やはり現実と机上の論理を結ぶ確かさは感じられない。
 しかし、比較的広範な領域のことが語られているので、読み物としてはそこそこ面白い。


【イタリアと日本】
 米国流グローバリズムの前提にある考え方は、大量生産・大量販売を目的にした汎用品のモノづくりであり、それがもはや限界にきていることを私はこれまで何度も述べてきた。美と感性を取り込んだイタリアのビジネスモデルが、その対極にあるのはいうまでもない。イタリア企業から学ぶところは多い。  (p.32)
 著者は、森永卓郎さんと同じ頃から同じことを述べている。
 世界市場の中では、イタリアの美と感性が盛り込まれたイタリアブランドが揺ぎ無さを誇ってはいるが、アジア市場では、日本人の美意識と感性が盛り込まれた日本ブランドが優勢になってゆくのである。そして、いずれ世界市場ですらも・・・。

 

 

【 『天工開物』 】
 明末のこの時代、ポルトガルの艦船がマカオに渡来し、中国にも西洋の科学技術が輸入されるようになっていた。『天工開物』 は、そうした時代の変化に鈍感な、古典である四書五経の訓詁学にあけくれていちばん大切な実学を軽視している、当時のエリート知識層に対する抗議の意をこめて、中国在来の産業技術の重要性を知らしめようとした警世の書だったと思われる。
 しかし、序文で宋應星がはからずも危惧していたように、実学を蔑視する風潮の強かった当時の中国では、『天工開物』 はほとんど顧みられることがなかった。むしろ、日本に輸入され、中国古代の 『考工記』 とともに産業技術の基本図書として各藩の殖産興業の指南書として使用された。いまでいう技術移転がこの書物を介して行われたのである。これは巡り巡って江戸時代の職人技術の向上にも貢献したと考えられる。 (p.112)
 『天工開物』という書物名、高校時代に世界史で習った記憶がある。
 日本より先に西洋の科学技術が渡来し、自国内にも 『天工開物』 に著されているような実学がありながら、日本より発展が遅れたことに、中国という国家の特性がある。度重なる天災や異民族の侵略によって継続的発展を維持できぬ 「災民文化」 が根底にあるのだろう。
   《参照》   『「反日」に狂う中国 「友好」とおもねる日本』 金文学 祥伝社 《後編》
             【災民文化】

 

 

【形而上と形而下】
 自然という言葉からは、経験で知りうる形ある自然(形而上)と、有形の現象の奥にある経験では知りえない自然(形而下)の二つの意味が考えられるが、・・・ (p.135)
 著者は、独自に定義している 「黙の智」 という概念を表現したくて、知りえないものは “下に隠されていると” 思って書いているらしいが、ここに書かれている形而上と形而下の表記は、一般的な哲学用語の定義とは反対である。

 

 

【東洋の叡智は全て日本にある】
 お膝もとの中国ではこうした古来の教え(易経や陰陽五行説)を活かして日本や欧米の経営手法を分析する研究が始まっている。私の知る限りでも四川大学の教授が現した 『東方智慧与符号消費』 (消費の記号を中国的な考えで読み解く)という研究報告書が出版されている。同書では日本の飲料市場の商品企画や広告・宣伝などのマーケティング手法を易や陰陽五行の理論で読み解いている。
 これに限らず中国では、欧米のビジネス手法を 「すべての智は大自然のなかにある」 という東洋的なアプローチで解釈しようとしている。人間中心の西洋思想とはまったく異なる世界観をベースに未来への方策、次なる戦略を練ろうということだ。こうした取り組みは、日本企業にとっても大いに示唆に富むはずである。 (p.149-150)
 この文章に続いて、「東洋の叡智を経営に活かせ」 という章を書いて、易経などを簡略に解説している。
 著者は東洋の叡智の中心が中国であると誤解しているのではないか。易経や陰陽五行など、先に書いた実学書の『天工開物』 と同様に、遥か以前に日本の先人たちはすべて咀嚼吸収してしまっている。
 日本語には、 “もののけ” という言葉があるように、 “もの(物)” と “け(気・霊)” を同一のものとして感じ取る優れた感性・霊性が日本人にはあるのである。易経や陰陽五行説の世界は、“け(気・霊)” の世界を開示する手法であるが、既に日本の経営者達は、形而下(顕在智・実学)の “モノづくり” と形而上(暗黙智・霊学)的な経営手法を意識せずとも取り込んでいるはずである。また、霊性に秀でた経営者ほど実学を尊重しているものである。
 いまさら日本が中国の易経や陰陽五行説を用いたビジネス解析手法がどうのこうの言う必要はない。むしろ中国が日本の経営手法を学ぶようになるであろう。


【守・破・離とスキーマ】
 よく知られている 「守・破・離」 は、芸事や職人仕事のように身体を用いて何かをする場合の発達過程を著す概念である。もとは江戸中期、茶道江戸千家の祖・川上不白は著した 『茶話集』 に手前の上達について、
「守は下手、破は上手、離は名
人」 
と記したのが原典だといわれる。利休道歌に、
「稽古とは一より習ひ十を知り、十よりかへるもとのその一」 
とあるのと、どこかで繋がった考え方であろう。 (p.200)
下記リンクにいろんな「守・破・離」の解釈例がリンクされている。
【ニーチェと「守・破・離」】
 守・破・離とは直接の関係はないが、こうした上達の過程のメカニズムを研究している学問に認知心理学がある。その研究では、「人間は反復継続した活動を繰り返すと内部にそれに対応した機能的な組織・構造が生まれる」ということが明らかになっている。この内的枠組みはスキーマと呼ばれる。 (p.201)
 この文章に続いて、心理学者の波多野氏が述べている、スキーマ形成の目安となる反復継続すべき時間が書かれている。これによると、熟達者になるために反復継続すべき時間は、5000~10000時間である。
 たとえ名人と言われるまでには至らなかったとしても、日本の技術力を生み出し発展させてきた職人さん達が費やしてきた時間の総和はとてつもなく膨大なものであろう。ノー天気な人生を歩んでいる私は、職人さんたちに深い尊敬の念を抱いている。
 
<了>