半年ほど前に半分ほど読んで、本の谷間に行方をくらましていたこの本を、年始に整理していて見つけた。前半部分には、日本社会と企業経営に関する知的で的確な解釈が記述されていたのであるが、前半は読み返すのが億劫なので、後半で印象的だった2箇所のみ書き出す。(実は、この本の良さの殆どは、前半の記述の中にある。)
【本物技術は全てによい】
トレード・オフ(あれか、これか)ですませる科学技術は、実は考え方の水準が低いのではないか、という時代になってきた。河川は利用できるし、魚は釣れるし、というのが本当ではないか。つまり本当の技術は両立のパラダイムを持ったものということになる。 (p.219)
この見解は、船井幸雄さんが常々語っている、本物技術を見分けるポイントと同じである。本物技術ならば「全てによい」のが当然である。この本は1990年出版なので、17年も前にこのようなことを考えていた草柳さんの洞察力はとても優れている。慧眼というべきなのであろう。
【「精神の淋しさの修復」】
マザー・テレサがインドでの滞在を終えて欧州に帰ったとき、彼女は、最初にこう言った。「インドには欧米の人が絶対に理解できないような絶望的な貧しさがあることは事実です。同時に欧米にある精神の淋しさはインドにはありません。」私はこの談話にめぐり合ったとき、「豊かさの再配分」よりも「精神の淋しさの修復」のほうが、連立多元方程式で解かれるべき「解」ではないかと考えた。そして、いまもそれを考え続けている。 (p.233)
現在の日本は、「豊かさの再配分」は既に不可能と思えるような資本主義段階に入ってしまっている。それゆえに、森永卓郎さんは 『年収300万円時代 日本人のための幸福論』 というふうな本を著しているのであるが、草柳さんの世代の方々なら、戦前のやや昔の貧しき良き時代を知っているが故に「精神の淋しさの修復」と考えるのであろう。
われわれの世代は、昔の貧しき良き時代をそれほど知らないし感じていない。故に、修復すべき精神の淋しさって何だろうみたいな、精神の深みに至れない危惧がある。「精神の淋しさの修復」より先に「精神の淋しさを感じることのできる魂への修復」が必要なのではないか、などと思ってしまう。何故だろう、私は本当に「淋しさ」を感じたことがない。私は壊れているのだろうか? だとしても、壊れているのが私だけであるのならば、単なる杞憂ですむのだが・・・・。
<了>
草柳大蔵著の読書記録