今日は読書記録ではありません。映画鑑賞記録です。
 1914年、第一次大戦中に戦場で実現したクリスマス休戦という、密かに語り継がれてきたウソのような実話を元に作られた映画だそうです。


【国家は個人を愛してなんかいない】
 戦争の映画を見るたびに、国家の正義と兵士個人の愛(命)の矛盾に突き当たります。やはり戦争映画である、『怒りのアフガン』 の中で兵士が絶叫するセリフがありました。「俺が国を愛しているほどに、国は俺を愛しているのか」 って。


【個人と国家】
 国家は個人なんかの愛になど回答を用意していません。国家レベルでの愛と個人レベルの愛は異なるものなのです。この不完全な星・地球上では、おそらくそうならざるを得ないのです。
 この地球から災いという文字が消えてなくなることを思い描いている人々は、実は政治の世界には関係なく生きている人々が多いように思います。
 政治関係の職業に携わる人々は、国家の視点で考え行動するがゆえに、最悪を避けることが最大の目的であり成果であるとせねばならないのです。
 日常生活者として平和を求め人類を愛する気高き魂を持つ人々は、仮に戦争に巻き込まれ、戦場で肉体が滅び去ったとしても、その魂は戦争が発生することなどない星に生まれ変わることができるように思います。


【戦争に迎合する宗教】
 いつだって戦争に正義なんかありません。邪悪な権力者の欲望のために、兵士や家族が犠牲になるだけです。そして、宗教までが戦争を肯定する側に回りさえします。もちろん、宗教に携わりつつ国家に迎合する宗教家が卑劣なのであって、宗教そのものが卑劣なのではありませんが・・・・。
 この映画でも、宗教に携わる人間が、国家レベルにおいても個人レベルにおいても、最大の愚行を犯す役割を担って描かれていました。


【恐怖を煽動する者の罪】
 「愛」の反対側にあるのは「恐怖」です。国民を「反日」で煽動する政府は、日本は凶暴な国家であると、自国民に「恐怖」を植え付け、「恐怖」を基点にして「憎しみ」を植えつけます。
 ただ平和に暮らしているだけの現在の日本人に対して、「反日」を煽動する国の政治家ほど深い罪を犯している人々はいません。戦争を設計する人々の「愛なき所業」に、どう対抗してゆくのか・・・・。
 「人に対する愛」、この点を離れたところから、全ての過ちが発生しているように思います。

   《参照》   『目覚めよ!宇宙人。』 山本耕一 (ヒカルランド) 《後編》

              【人に対する愛】

 

<了>