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| 避難先で店を再開した紺野さん。「ほっとしてもらえる空間にしたい」(東近江市乙女浜町) |
東日本大震災の発生から11日で半年を迎え、福島県から京都市の市営住宅に避難した家族が、それぞれの道を歩み始めている。放射能への懸念から当面の帰郷を断念して京滋に腰を据えた人。慣れない土地での生活から東北地方へ帰った人。望郷の思いを胸に、先の見えない生活を送る人もいる。同県南相馬市から逃れてきた三つの家族の今を追った。
■再起 湖国で店再開「戻れない」
築100年を超える古民家に食器や家具が並ぶ。東近江市の田園地帯に8月、開店した雑貨店「仮庵(かりいお)」。店主の紺野奈緒子さん(55)は地元で営んでいた店を避難先で再開した。
3月、家族7人で伏見区に避難した。アルバイトで食べつなぎ、母クニ子さん(81)の世話もできる融通の利く仕事を探したが、見つからなかった。慣れない環境に母は帰郷の思いを募らせた。自身も心に余裕がなくなった。故郷に似た景色が広がる土地を探し、2カ月後に湖国に仮住まいを得た。
南相馬市の自宅と店があるのは、原発から約24キロの「緊急時避難準備区域」。7月、国が区域の解除を検討していると耳にしたことが再開の転機になった。地元に荷物を取りに戻れば自前の線量計が反応する。「安全だという保証はどこにもない。人の命より経済を優先するのか」。不信感から帰郷の選択は遠のいた。
義援金を使い、店舗用の民家を借りた。南相馬市まで車で7往復して商品を運んだ。肌に触れるハンカチなどは避け、家具などは一つずつ線量計で汚染の有無を確認した。
東北の工芸品も並ぶ店内の一角では、コーヒーやケーキを振る舞う。「ずるいと言われるかもしれないが、今は故郷には戻れない。自分と同じ避難者を、ここで支えたい」
■望郷 いつか必ず帰る
「この半年、あっという間だった。新しい環境に慣れるのに夢中で」。家族4人で避難してきた鈴木初子さん(62)は、山科区の団地で振り返った。
自宅は原発から20キロ圏内。いつ帰れるのか。情報を求めて毎日、新聞やテレビを食い入るように見ている。しかし、政府の方針は定まらない。「もう、一喜一憂するのにも疲れました」
慣れない土地での生活。夫の正明さん(65)は家に閉じこもりがちになった。地元では家族で鮮魚の仲買業を営んでいた。
福島沖は好漁場。正明さんは「ヒラメ、カレイにカツオやサンマ…。9月は一気にいろんな魚が揚がるんだ」と表情を和らげた。その漁港も、津波と原発事故で機能を失った。
京都では役所も近隣の人たちも親切にしてくれる。「こんなにいい所に住まわせてもらって、感謝でいっぱい」と初子さん。それでも、いつか必ず帰るつもりだ。「若い人はもうだめと割り切れるだろう。でも私たちは、懐かしい所で死にたいんです」
■帰郷 安心できる環境求め
山科区の市営住宅に家族4人で避難していた中目優明さん(25)は、5カ月に及ぶ京都での生活を終え、8月半ばに実家のある仙台市に移った。
南相馬市の自宅は原発から20~30キロ圏。長女琉愛(りあ)ちゃん(2)と長男琉翔(りくと)君(1)への放射能の影響を考えると住めなかった。避難当初は京都で腰を据えると決め、電気設備会社に正社員の職を得た。だが、子どもが頻繁に体調を崩すようになった。働きに出ると、子育ての負担は妻麗望(れみ)さん(25)に集まった。
市営住宅には避難者が多く、住民の支えもあったが、気軽に相談し合える隣人はできなかった。麗望さんは「自分で頑張らねばというプレッシャーがあった。もっと周囲に溶け込んでいたら」。
仙台市の借り上げマンションに無償入居できると知った。仙台は夫婦が学生時代を共に過ごした地。「子どもにも妻にも安心できる環境が必要だった」。優明さんは、京都を去ることを決めた。
仙台に戻り、子どもも落ち着いたようにみえる。一人で歩き始めた琉翔君。京都にいる間に成長した。「家族が一緒にいること。仕事のありがたみ。日常の大切さに気が付いた」と語る優明さんは、再び就職活動を続けている。
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