今日は次男の16歳の誕生日です✩
春に大波があり、今日、この日を迎えられたことが
感無量な夕陽です。
さて、親としての
今の気持ちみたいなことを書いてみようと思います。
まだ小さい子を育てている方にはピンと来ない気持ちかもしれないですが。
わたしにはリアルに5人の息子がいます。
上は18歳から下は6歳まで。
特に長男と次男は社会に出たのもありますが
もうあらゆる面で立派な個人として
自分の考えを持ち
自分の夢に向かって生きています。
一方的でなく
支えあっている感覚がすごくあります。
そして、わたしには5人の息子しかいないわけではないのです、実は^^
わたしは2年間ほどあげまん道スクールというものをやっていて
それを受講してくださった方たちのことを
当時「娘」と呼んでいました。
あまり、そのことに深い意味はなかったのですが
息子しかいないわたしが
女の人とたくさん関わる機会をもらって
そんな気持ちになってしまったのかもしれないですね。
5人の息子たちにもお乳をあげてきましたし
全国でたくさん出会った「娘たち」にも
あげまん道という
前半の人生をかけて培ったわたしの「血液みたいなもの」
それは言うならば
お乳を与えてきた感覚があるのです。
リアルな息子たちにも
生き方にしばし迷っていた娘たちにも
そのときのわたしはお乳を飲ませました。
それは
そのときのわたしが
お乳の出る体であったからできたことです。
わたしはお乳が出た。
そこにお乳を必要とする出会いがあった。
それだけのことです。
そして同時に
息子や娘たちから
たくさんの愛をもらい
気づきをもらい
人間的な成長をもらっていきました。
たしかにそこには
交換(交歓)がありました。
そして、いずれはみんな
成長していき、自立していきます。
息子たちが
そして娘たちが
わたしから離れ
自分らしく生きていくんですよね。
そこに関してわたしはなにも思うことはありません。
そこはもう
領域ではないことがわかっているからです。
子どもに対してコントロールしたい気持ちで苦しむ人が多いけれど
わたしはもともとそれが薄い親でして
それはたぶん
とてもコントロールのきつい父親の愛を受けてきた身だから
同じような思いはさせたくないというのがあったおかげかなって思います。
それでもたまにコントロールしたい欲がひょいと顔を出すときは
リアルな子育ての中で
ことごとく息子たちから
「違うよ」ってサインをもらってきました。
だから今はもう
本当に
ただどこかで、イキイキと過ごしているという便りがたまにあるだけで
わたしは十分だと思えます。
なんというか
いつまでも「おかあちゃんおかあちゃん」とついて回られても困るんだし
逆に「おかあちゃん、だっせーんだよ」ぐらい思って出て行く子もいて当然だし
自然な流れで自立があり、いつまでも仲良くできる子もいたりするし
けど、その違いは
ただの相性だったりだとか
趣味の問題であったりとか
表現の違いであったりだとか
リアル息子5人と
そして妄想娘100人以上とのお付き合いの中で
知っていきました。
自分のお付き合いが大きくなりすぎて
誰のことを大事にしていいのかわからなくなって
好きという気持ちがありすぎて苦しくなったり
自分の手に負える範囲を超えすぎていることに気がつき
フェイスブックの友達を減らしていきました。
それは
わたしにとっては
自分の肉を切り刻むかのように苦しい作業でした。
人を切っているようで
自分の肉を切っていました。
けど、あの時期
やらずにはいられなかったのです。
決して正しい方法だったとは思いませんが
わたしはそういうやり方しか出来ない不器用さを持っています。
そうこうしているうちに
リアルな息子である次男が
最後のヘソの緒を切らせてくれた今年の春。
なんというか
生きているだけで素晴らしいんだということや
もし生きていなくたって
出会えたという奇跡そのものがすごいことなんだということや
一緒にいることだけがすべてじゃないってことや
なにより
わたしの胸の中に【その人が確実にある】ということが
どれほど豊かなことなのか、と。
出会えたこと。
語らったこと。
笑いあったこと。
ときに涙したこと。
ときになじりあったこと。
ときに誤解しあったこと。
愛を伝えたこと。
愛が伝わらなかったこと。
もうそのすべてが
どれほど大切な出来事かってことが。
そうやって
愛し方がへたなわたしでも
誰かと
そのとき
愛し合ったという事実。
愛を交わしあったという事実が
最後のへその緒みたいなものが切る作業をしてから
わたしの中に確実に宿ったんです。
それは…言うならば
わたしのお乳飲んだじゃないーーーー?っていう事実。
(笑)
あんたたちが
たとえ
どこに行ったって
お別れしたって
会えなくなったって
わたしのこと嫌いになったとて
もしかしてこの世からいなくなったとしても
でも一時期
わたしのお乳飲んだじゃないーーーーー?っていう
わたしのジコマン。
これね、
親をやってなかったとしても
同じだと思うの。
人と人との関わりは
すべて交歓だから
つまりは
お乳みたいなものを
与え合っているということだから
なんかね、これがあるから
子どもたちの幸せを
これまで袖振りあった人たちすべての幸せを
本当の意味で喜べるわたしになった気がするの。
ここだけが支えとなってるのですよ。
伝わるかしら?
伝わんなくてもいいや(笑)
わたしが今日書きたいから書きましたから^^