またまたいろんなことが深まりつつあります。
うまく書けるかどうか、わからないまま、書いていってみようと思います。
先日、新しいお仕事を組み立てて発表したけど、そのあとものすごい違和感に襲われて、引っ込めた話。
違和感の正体が少し見えてきました。
思いついたとき(インスピレーション)はとてもワクワクしていたのだけど
形にしていく段階で
お金のこと、人のこと、考えすぎたんだと思います。
もちろん、ビジネスである以上、上のことを考えるのは当然なのですが
きっとバランスが古いわたしのものだったように感じています。
「今」のわたしのバランスではなかった。
それに気づいたから、また白紙に戻しました。
またフレッシュなインスピレーションが来るまで、寝かせてみようと思っています。
ちょうど世間はゴールデンウィーク突入。
ものごとを告知するには適さない時期でもあるし
そして逆行していた水星ももうすぐ順行に。(5月4日)
タイミングはそのへんかと感じています。
昨日は一日、予定がなくって
そういえば、予定がないって前は苦手でした。
空き時間があると、何かを「しよう」としていました。
そう、今回感じた違和感を一言でいうなら、「しよう」とした部分の力みに関してでした。
最近は自然に起こる感覚を大事にしていて
「しよう」としてしたときの力みに敏感になっているんですね。
ちょうど、スクール4期生の子も
空き時間ができたら、「もったいない」とか「せっかく」と思ってしまい
自分の心とは反して、動いてしまって疲れる…という相談をしてくれていて
まさに、そこだなぁと思うのです。
なにがもったいないのか?
なにがせっかくなのか?
今一度、自分の心に聞いてみてほしいんですよね。
それはいつかに「思い込んだ」こと。
それはいつかの「他の誰か」の考えが植えつけられてしまったこと。
だったりするんです。
それで話を戻すと
昨日は、心から起こってくるか、誰かから声がかかるという「起こり」を意識して動いていきました。
すると、結局
何もしないってことにはならなくて
何かはどんどん起こっていきました。
わたしたちが怖いのは
何もしないこと。
もっというと、「何もしない」=「自分に価値がないと感じること」
なのだと思うのです。
だから、わかりやすい「ナニカ」を「しよう」とする。
クッキーを焼いたよ♪
トイレがピカピカになったよ♪
どこそこに行ったよ♪
SNSなどの発信はそういうもので溢れていて
刺激を受けまくり
自分も外から見たわかりやすい「ナニカ」を「しよう」とするんだね。
わたしは、昨日、とってもとっても楽しかったです。
わかりやすい「ナニカ」はしてはいないのですが
偶発的に起こった出来事を子どもたちという純粋な人たちと楽しみ尽くしました。
気づけば、いっぱい笑っていました。
わかりやすい「ナニカ」はしていないのですけどね。
ああ、心で生きるって
こういうことなのだ…と取り戻し続けています。
そして今朝、次男が目を真っ赤に晴らしていたので、話を聞くと
やはり、あの大好きなアニメを見て、3時間以上泣き続けていたというのです。
わたしもまた見たくなり、朝から見ていました。
わたしも二度目なのもあったり、次男の想いと近づいているのもあり
ボッロボロに泣きました。
一番泣けたセリフが
「命は心を運ぶもの」という言葉。
わたしたちはこの命を使って
「心」を運んでいる。
出会って
心を通わせて
混じっていくんだ。
別れても
その人の一部はもう自分の中にある感覚。
心って
心って
見えないけど
本当に素晴らしいものだなぁと(←このボキャの限界が歯がゆいくらいに)
わたしたちに心があるってことが
どれほどに素晴らしいことなのかが
感じられて
泣けて泣けてしょうがないのです。
嬉しいと思う心。
楽しいと思う心。
さみしいと思う心。
悲しいと思う心。
せつないと思う心。
大好きと思う心。
届けたい心がいっぱい。
心で生きていると
ますます、命が歓喜し始めます。
前はいかほどに、心を殺して生きていたのか?と思うほどに
これほどまでに命って歓喜しながら生きられるのだと
実感しています。
ひとつひとつの出来事
出会い
人
もの
が、ものすごい大切で
たまらなくて泣けてくるのです。
この感覚をご縁ある人に届けたい想いは強くあるけど(白い世界の橋渡しだからね^^)
どういう形で届けたいのか
もう少し寝かせてみようと思います。
ただただ
今は心が本当に躍動して、喜びに満ちて生きられています。
まとまりませんが✩
もう少しでうちに子ヤギが来るので
めいいっぱいその喜びを感じたいと思います。