そんなこんなで、どんどん楽ちんになっていった私でした。
もう「子育て」という言葉の質感が、合わなくなっていくんです。
決して、わたしたちは子供を育ててなんかいないって。
もろ、逆だと。
子供たちに教わっていくことばかりでした。
最初はピカピカツルツルだったわたしたちの魂。
でも、いろんな汚れをつけてきました。
もちろん、それもこの人生を楽しむためにつけた汚れなんですけど
落とそうと思ったときに、どこに汚れがついているのか、わからないとね♪
そんなとき、目の前でピカピカツルツルの魂ちゃんが
わたしたちにいろんな行動を持って、
「ワサワサ」「ぞわぞわ」というような感情を巻き起こしてくれ
教えてくれました。
「ワサワサ」「ぞわぞわ」は素敵な合図です。
心地は…悪いですけど(笑)
「これってホント?」って訪ねてみるチャンス到来なのですよね~。
あとひと~つ。
書きたいのは、親は子供のことに「必死になりすぎんなよ♪」ということです。
(あ、わたしの肚の声、オトコっぽいのです(笑))
「子供のために」って言葉、世の中ではまだまだ美しくもてはやされているように思うんです。
母の犠牲心。
子供のために命をもいとわない、みたいな。
美しい…ですか?
わたしは今はわからなくなっています^^
たぶん、そういう状況が来たときは、迷わず自分の命を差し出すと思います。
ただ、それほどまでの子供への熱情は
ときに苦しみに直結していくことを、体験の中で知っていきました。
子供が目の前にたくさんいたときに、やっぱり自分の子供って特別かわいいです。
どこの誰より可愛く見えます。
本能なんでしょうね。
だからこそ、睡眠不足でも
おっぱいあげたり、おむつ替えたりできるわけです。
ただ、自分の子供「だけ」が強すぎたときに
神様は苦しみを与えるんだなぁって感じています。
例えば、子供が意地悪をされているときに
自分の子供「だけ」が強すぎると、ものすごーく苦しいです。
相手の子を握りつぶしたくなるくらいに、苦しいです。
そんな自分の心を恐ろしく思い、さらに苦しいです。
意地悪の度合いにもよりますが、たいがいの子供関係での意地悪は
コミュニケーションであったりするんですけど
それを見守る余裕がなくなります。
自分の子はもちろん可愛いのだけど
それでも「あの子もかわいい」「この子もかわいい」があるほうが
いろんな子供たちの状況を大きく見ることができ、苦しみません。
数年前に出会ったある人がこんなことを言ってたんですよね。
「自分は自分の家族を守るために、人に喜んでもらう仕事をしているんだ。
自分の家族を守るために、自分の家族のことだけしていたら
僕が死んだとき、家族を守れなくなる。
僕が今、他人に喜んでもらうことで
自分がもし死んだときに、周りが僕の家族を助けてくれるという流れを作っておきたいんだ。」
と、いうようなこと。
これ、聞いたとき、目からウロコでした。
今は、、、それもバランスよね~とは思うのです。
そうだからって、生きている間、外ばかり見ていられたら
今の家族がかわいそすぎるって思うのですが
ある意味、これは大きな意味を含んでいるなぁと思うのです。
どこかの遠い国で地震が起きて、何百人も亡くなったときと
目の前でよく知った人が一人亡くなったときと
近い一人のほうが悲しいです。
そういう距離の法則ってあるんです。
あまりにも自分の家族「だけ」を大切にしだしたときに
家族の中での出来事は、それに比例して大きく心に響き始めます。
うれしいことは、大きくうれしい。
それはいいでしょう。
だけど、何か悲しみが訪れたときに、神様は等しく大きな悲しみを与えます。
どちらを選ぶのも、自由なのですが
わたしは目の前の家族を一番にしつつ
ときに大きな視点を取り入れて考えるようにしています。
観客の視点です。
映画を見ているかのような、遠くから俯瞰する視点です。
そうしたときに、近くの苦しみから距離を取れるんです。
そして、本当に大切なことが見え始めたりします。
自分の子供が一番可愛くて、当たり前です。
自分の家族が一番大切で、当たり前だし、いいんです。
ただ、それが「過ぎる」と、等しく喜びも膨らみますが
悩みも悲しみも苦しみも、大きくなるってことを知っていられるといいなぁと思って書きました。
たぶん、これで終わりです☆
また、湧き起ってきたときに
わーーーーっと書きますね。
読んでいただき、ありがとうございました。
今後こちらで聞けます。
8月8日 鳥取
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どこかの土地でお会いしましょう~♪
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