【रथयात्रा】ジャガンナータ神と2023年7月2日アブクタ・ムーラの旅
今回は2023年7月2日ジャガンナータ・ラタヤートラーで起きたアブクタ・ムーラの時間帯における不思議な旅について記録しておこうと思う。まずは時系列順にジャガンナータ神たちの様子をお届けする。プラーナ・プラティシュタの前。みんな目隠しされている。これからラタ(山車)に乗るところ。待機中。ラタことトラックの荷台に乗せられているところ。7月2日夕方、アブクタ・ムーラのエリアをチャンドラが運行したときのことだ。ちょうどそのころ、ジャガンナータ神たちはトラックの荷台に乗せられ、ラタ(山車)を引く儀式を行う運動場へと運ばれていったのだが、トラックの先頭を背にしていたため、見送る私たちのほうを満面の笑みで見つめながら、後ろ向きに進行して寺院をあとにしたのである。自分はなぜか、この光景にとてつもないさみしさを感じた。1mでもラタを引いてからジャガンナータ神たちが去っていくのであれば納得がいくのだが、一度も引くことのないまま、彼らが逆向きに運ばれていくのを見送るのは胸が締め付けられる思いがあった。なぜそこまで考えたのかわからない。もう二度と彼らは戻ってこないと無意識のうちに思い込んでいたのである。これは何かの間違いだ、と。そうして奇妙なさみしさに呆然としていたところ、Wさんが撮影担当のNさんに何やら話しかけていた。耳を傾けてみると、危険な暑さのため中止を告げらていれたラタを引く儀式が、ある運動場で行われることになっているというのである。その儀式が終了した後、またこの寺院に戻ってくると。言われてみれば、ジャガンナータ神たちはこの寺院に住むことになっているのだから、戻ってくるのは当然である。なぜ自分はもう戻ってこないなどと思い込んでいたのだろう。自分たちはトラックが去っていた方向へと歩き出した。かねてから運動場はすぐ近くだと聞いていたからである。しかし、先生が「すぐ近く」という言葉をやたら強調しているときには正反対の意味を表すのだということをこの後すぐに思い知らされることになる。自分たちが歩き始めたところ、後ろからやってきた車の運転手(インド人)に「乗せてやるよ」と声をかけられた。運動場の正確な位置がわからなかったので、こんなにラッキーな話はない。目的地まで連れて行ってくれるのであれば御の字だ。自分とWさん、Nさん、そしてMさんの4人は二つ返事でその車に乗り込んだ。さて、これでラタを引っ張る儀式を見られるぞと意気込んでいたところ、到着した場所は駐車場である。しかも、朝、寺院だと思い込んで迷って訪れた駐車場なのである。なぜ、朝に迷ったその場所をここで再び見てしまうのか、妙なデジャヴを感じながら運転手さんの話を聞いてみると、彼はてっきり私たちが帰ろうとしていて、帰りの車を停めている専用の駐車場まで歩こうとしているのだと思い込み、ちょうど自分も帰るところだから、ついでに駐車場まで乗せて行ってあげようと思われたそうである。「いや、そうではなく、ラタを引く儀式を行う運動場に行こうとしていたのだ」と説明すると、彼は「何それ?知らない」という。つまり、彼は運動場のある場所を全く知らなかった。逆に、彼は「その運動場の住所がわかるか?」と聞くのだが、同乗者は誰も知らない。それどころか、運動場の名前すら知らないのだから、グーグル・マップで検索しようにもできない。マップを拡大したり縮小したりしてみても、運動場は見つからない。家に帰ろうとしていたこのあわれで親切な運転手は、自分が全く行く予定のない運動場の住所を知るために寺院の関係者に電話をかけた。当てが付いたその後もしばらく迷う時間が続いた。ある時はセブンイレブン、ある時は空き地、どこかに停まるたびに不安になってくる。もはや運動場にたどり着けるかどうかよりも、寺院に帰ることができるかどうかのほうが気がかりとなっていた。もうあきらめて寺院にUターンしたほうがよいのではと思いつつあった時、「あった、あった」、「これだ、これだ」、「引っ張ってる、引っ張ってる」、と前後の席から声。右手を見てみると、運動場の奥のほうで大勢のインド人たちが一列になり掛け声をあげながらラタを引っ張っている。何か夢に出てきそうなシュールな光景である。全く現実感がない。砂漠を行くキャラバンを蜃気楼の中に見るかのようだ。荒涼とした大地で、人々が列になってラタを引っ張っている様子はすでに亡くなっている者たちが命の賛歌を歌うようである。私たちは運転手にお礼を言ってから急いで車を降りた。儀式は終わりかけていたが、かろうじてラタを引く場面を見ることができた。本当にラッキーとしか言いようがない。 गुरु पूर्णिमा おめでとうございます。 2023年7月2日運動場にてラタを引っ張る様子を撮影していたら、そこにいるなと怒られました。 pic.twitter.com/c1WVcdN6iS— ジョーティシャ/ちゃまるーむ (@ChamaruJyotisha) July 3, 2023Nさんはカメラのバッテリーが切れかかっているからiPhoneで撮影するという。レンズを向けながら近づいてみると、ジャガンナータ神たちはトラックの荷台に乗せられたまま、逆向きに引っ張られていた。自分がラタのそばにようやく追い着いた時には、すでに人々はラタを引く綱を手放しつつあり、一様に円になってマントラを唱えながらラタの周りを回り始めていた。जगन्नाथः स्वामी नयन पथ गामी भवतु मेジャガンナータ・スヴァーミー・ナヤナ・パタ・ガーミー・バヴァトゥ・メーさながら死者の行進である。もし真実のために命をささげることができたなら、最後の瞬間も喜びのまま神の御名を唱えることができるだろうか。そして、天界に到達しても「जय जगन्नाथ ジャヤ・ジャガンナータ」と歓喜の声をあげながら、ジャガンナータ神の周囲をめぐるのだろうか。ジャガンナータ神は後ろ向きに引っ張られてもピーカンの笑顔で私を見ている。あの時、去っていた時と同じ顔で。帽子が下がってきていて少し疲れているようにも見える。先生がこちらに向かってきた。「みんな来ましたね。よかったね」というその表情があまりに自然で不自然だった。「みんな」来ていない。自分の仲間のうちで、ここにいるのは自分とNさんだけだ。それとも、先生にはみんな来ているように見えているのだろうか。無意識のうちに、なぜ先生がここにいるのだろうと疑問に思う。Wさんは「本当は言ってはいけないことを言ってしまったので先生に怒られる」と終始恐れていたのだが(日本人は運動場まで来ないで寺院で待機しているようにと言われていたため)、怒られることもなかった。にもかかわらず、なぜか私は少しも笑うことができなかった。「ちょうど雲も出てきて涼しくなったし良かったね」と先生。空を見上げると一面に白い雲が覆いかぶさっている。インドラ神が訪れたのだな、と思った。とても、とても悲しい瞬間だ。裏切りの裏切り。裏切りは追いつかない。帰りは寺院まで送ってくれるバスがここまで来るという。大型バスの一番前の席、Nさんの隣りに便乗する。通路を挟んで向こう側の席に座ったWさんにアブクタ・ムーラの話をする。アブクタ・ムーラが含まれるガンダーンタ・ナクシャトラは、ブー、ブヴァ、スヴァルガという3つのローカの境界にある。これらはあるローカと別のローカが交差する領域であり、別のローカへ到達するためにこれまでのローカを越えていく場所でもある。特にアブクタ・ムーラはインドラ神とラークシャサの激しい対立を表示する。したがってこの時間帯は大きなドーシャ(欠陥、過ち)をもたらすというのである。確かに、何か時空を捻じ曲げられた感がある。こんなにたくさんの人が亡くなっているのだ。この肉体は実は死体と変わらないのだが、アートマー、意識が内在しているために生きていると定義されている。力は出し切らなければ自分を罰することになる。ジャガンナータ神たちは引っ張られたあと、やたらすっきりしたピーカンの笑顔でここにいる。神や聖者は何があっても笑顔にしかならない。どんな悲惨なことが起きても、それはカルマが返ってきただけであるし、天の思し召しでもあるのだから。「ジョーティシャ」のことをデーヴァナーガリーで「ジヨータシ」とか意味不明な言葉で書かれているものも見かける。ナーランダ大学を襲った輩のように知識を破壊しようとする輩はどの時代にも存在するのだろう。※あとで先生から聞いたのだが本来であれば、ジャガンナータ神がオリッサのプーリの寺院に戻られてから後には世界のどこでもラタヤートラーを行ってはいけないとのことだった。今回は特別に7月2日に行ったということである。ジャガンナータ神が逆行して引かれていったのも、このこと(過去の記憶をフラッシュバックさせている)を示唆しているのかもしれない。ॐ तत्सत्