常識って何だろう?ルールを守ることの裏側について考えてみた
「ルールを守ろう!」「みんなに迷惑をかけてはダメ!」
こんなフレーズ、どこかで耳にしたことがありませんか?日本では、このような価値観が根付いているからこそ、災害時にも整然とした行動がとれるとか、略奪が起きにくいと言われていますよね。確かに美徳のようにも思えますが、ちょっと別の視点で考えてみると、この「ルール第一主義」が人を傷つけることもあるのでは?と感じることがあります。
例えば、正義感を振りかざして弱者を責め立てるような誹謗中傷。そんな言葉がネットや日常の中に溢れていること、ありませんか?本人は「助言のつもり」「正しいことを教えてあげている」と思っていても、相手にとっては辛辣な攻撃になっていることも少なくないようです。
実は、私自身も昭和生まれなので、若い頃は「ルールを守るのが当たり前」という考えが染み付いていました。ルールから外れる人を見ると、「なんでそんなことをするんだ!」と憤慨していたこともあります。でも、大人になるにつれて気づいたんです。「そもそも常識って何なんだろう?」と。
常識とは?それって本当に正しいの?
辞書的には、「常識」とは多くの人々が共有し、当然だと考える知識や価値観、判断基準のこと。でも、この「多くの人々」というのが曲者なんですよね。誰が「多く」を決めているのか?そして、その常識が本当に現代に合っているのか?と疑問を持つ場面が増えました。
最近だと、コロナ禍明けの出社強制の流れ。リモートワークで十分に仕事が回るのに、「出社しないと生産性が落ちる」と考える経営者が多いのは、昭和的な「常識」に縛られているからではないかと思っています。監視できないとサボる、なんて考え方自体がナンセンスですよね。でも、これも「昔からこうだったから」という常識が背景にあるのだと思います。
さらに厄介なのは、一部の人が自分の考えを「これが常識」として声高に叫び、それがマジョリティの意見になってしまうこと。こういう場面、結構ありませんか?結果として、誰かの自由や多様性が犠牲になることも少なくありません。
常識を疑う習慣を
常識をアップデートし、多様性を受け入れる社会システムが必要だと私は思っています。でも、それをどう作るかは難しいですね。結局、現段階では民主主義が理想だと考えていますが、それすら完璧ではないですし。だからこそ、私たち一人ひとりが常識を疑い、新しい視点を持つ努力をするしかないのかなと思います。もちろん簡単ではないけれど、意識を変えていくことが未来を作る一歩になるのではないでしょうか。
本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました!少しでも共感していただけたら嬉しいです。それでは、また次回お会いしましょう!