言葉にすると

とても嫌な人間になってしまう気がして言えなかったり

モヤモヤする気持ちを抱えるだけで

とても悪い人間になったような気がしたり

 

人の心はコンピューターのように

いつも同じ答えがあるわけではありません。

 

心のモヤモヤも

自分の状態が良ければ気がつかなかったり

なんでもないものとして認識されたりする

 

それが人間の心

 

子供の頃に悪さをすると

「このバチ当たりが!!」

と言って怒られていました。

 

「バチ」

 

明らかに悪いことをして

その報いで痛い目に合うと

「バチが当たった」

なんて言われていましたが

 

神様はバチは当てません

 

その心は全て自分が持っているもの

それはバチが当たるように

自分で仕向けている・・・

ということになりますね

 

誰もバチが当たる事をよく思ってはいません

だけど、自分自身で

「バチが当たった」

と思うのは

行動に少しでも違和感があったためではありませんか?

 

昔は目に見えないものを信じる力が強かった

大人も子供も道徳心が育っていました。

誰もみていなくてもお天道様はみている

 

今は・・・

そんな心を育む環境が少なくなってきました。

 

目に見えない神様や仏様を信じる子供は

どんどん少なくなっています

 

その代わり

誰もみていなくても

監視カメラはみている・・・

と言わんばかりにどんな場所でもカメラがあり

私達は管理されています

 

道徳心が薄れてきたぶん

性善説がなくなってきたぶん

それを証明するために

車載カメラや個人の監視カメラが使用されるようになりました。

 

「正しい」とはなんでしょう

 

自分の心に正直に・・・とは??

愚痴をいうことは良くないことだと言われていますが

自分の心に正直になった時

吐き出すことも必要になります

そんな時神様なら

たまにはしょうがないな・・・

とお許しくださるのでしょうが

 

監視カメラに向かって愚痴を言えば

それはそのまま相手に伝わり

言い訳のしようもなく

反省のすることすらできず

追い詰められた人は

自分と相手を責めることしかできなくなってしまいます。

 

愚痴を言ってもエスカレートすることなく

言ってしまったことを反省できる環境があれば

弱い自分を認め、悔改めることもできます。

 

もちろん真面目に正しくいきていれば

そんな必要もない

と、思うかもしれません

 

だけど「正しさ」も人によって違います

法律やルールなどは外れるとすぐにわかりますが

あやふやな「正しさ」自分だけの「正しさ」もあるのです。

 

その少しの違いがあるからこそ

少しの隙間が必要になる

少しの曖昧さを必要とする場面も

大事になると思うのです。

 

目には見えないものを信じる力は

正しいものをそのままストレートに伝えるだけじゃなく

少しだけ猶予を持たせ

 

自分から改める心を育てることができるものだと

私はそう思うのでした。