
【不登校】学校「行って欲しい」けど「行くべき」かは分からない
どうもー☆腐母さんdeath
やっと一週間終わった!!
お疲れ様です!
で、連休前に、母、「学校に行って欲しい」と「学校に行くべき」について考えてみた。
(思考的には前々回の続きです)
…っと、その前に自己紹介
発達凸凹&不登校兄弟
兄…小学校完全不登校→中学で復学にチャレンジ中!
言語理解:高め⬆️ ワーキングメモリ低め⬇️ ADHD(未診断)&HSC
弟…小学校中学年 不登校
言語理解:低⬇️ 視覚認知::高
凸凹差40&ADHD(診断済)
育児のストレスで腐ってしまった母の、愚息2人を受容していく為の吐き出し日誌です。
母(ADHD気味)は、不登校を機にフルタイム→フリーランスに転身しました
母は、4年半不登校と向き合ってきて、やっぱり「学校に行って欲しい」とは普通に思うんですよね。
でも、我が子達を見てると、「学校に行かせるべき」かは正直分からない
そもそも、「学校に行って欲しい」と「学校に行かせるべき」は違う感情だと思う。
それを混同すると親子ともに辛くなるんじゃないか??
「学校に行って欲しい」
これは親の正直な気持ちなり
だって、学問と社会生活の両方を学べて、長時間の居場所にもなり、食事も提供してくれ、遊び相手の友達もいる!しかも税金で運営されていて、親からの持ち出しはほぼ無い。
神サービス。
この学校(&学童の)システムで共働きはなりたってる。
だから、子供が小さいうちの不登校は、留守番も不安だし、どうしても親の仕事&生活&家系に影響がでる。休職したり、転職したり、辞めたりしないと行けない場合もある。
そりゃ行って欲しいよ。
行って欲しいに決まってるだろ
不登校だと、学校がやってくれてた事、全部家庭でやらないといけないから。(下手すりゃ片方だけにのし掛かる…)
だから、「学校に行って欲しい」って当たり前の感情だと思うんですよねー
「学校に行くべき」
これは、今まで自分が親や社会から刷り込まれてきた考えが、凝り固まってできてる感情だと思う。
その子本人の性格とか特性とか時代性は全く考慮されてない、外部からの声が形成したものだと思う。
その声は昭和の時代からの学校神話の集団意思みたいなものだと思うのですよね
皆んながそうだから、それが当たり前だから。
「学校いくべき」という考えは外からやってきてる。つまり、開国を迫るペリーなわけ。
↓外からの脅迫観念、ペリー
確かに皆と同じ道を歩んでくれたら、普通に学校行って勉強して集団に馴染んでくれたら安心だけど、果たして目の前のその子のベストかは分からない。
HSCちゃんのように、集団にいると周りの情報を受け取りまくって気を遣いすぎて過剰適応している場合もあるかもしれない。
凸凹過ぎて、凹を皆と同じレベルでするのが無理で、でも凸を磨いたら国保級の子が潰れてしまうこともあるかもしれない。
特性が強くで、じっと座ってるだけでストレスな子で、でも無理強いされて怒られて自己肯定感が下がっちゃう場合もあるかもしれない。
そんな子を、ギュッと学校の枠に閉じ込めるのがベストか分からない。
マジで分からないのよ!!
だから、ベターでベストな場所を求めて模索するんだけどねー
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ヨロシクです