シャガールのカレンダー(2024年07月) | チャコティの副長日誌

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主役になれない人生を送るおじさんの心の日記.
猫と映画、絵画、写真、音楽、そしてF1をこよなく愛する暇人.
しばし副長の心の彷徨にお付き合いを….



Marc Chagall《Peasant Life or the Russian Village》1925
Albright Knox Art Gallery,Buffalo New York

7月のシャガールのカレンダーは
《農民の生活》.


原画はNYの個人美術館の所蔵.
原画はこんな調子.


マルク・シャガール《農民の生活》1925
NY.オルブライト・ノックス美術館所蔵


この画が描かれた1925年は既にシャガールは
パリに戻ってきている.パリで描かれたロシアの
農民の生活を想い描いた作品.

幻想的と好く表現されるシャガールらしい
柔らかな表現法で、輪郭線を強調しない.
馬と農民の横顔を中心に、農民の生活を
周囲に散りばめてある.

「農民の生活」と題するこの絵は、独立した
新たな作品ともいえるが、以前の作品「私と村」
のバリエーションといえなくもない.
どちらも男と馬とを大写しに描き、背景には
ヴィテブスクの村の生活風景を散りばめている.

絵の中に動物を入れるというスタイルは、こうして
段々とシャガールの大きな特徴となっていく.

1917年発生したロシア革命はシャガールに新しい
仕事をもたらした.シャガールはロシアで最も優れた
芸術家の一人で前衛芸術家の一人とみなされて
いたため、ヴィーツェプスクに創立予定の美術大学
「人民美術学校」で教鞭をとることにした.

シャガールは大学内で、各自が独立した芸術スタイルを
持つ熱心な芸術家たちの集合的な雰囲気を作ろうと
したが失敗する.“ブルジョア個人主義”的として
批判され、学校を退職して、モスクワへ移動する.

モスクワでシャガールは、新しく設立するユダヤ人
商工会議劇場の舞台デザインの仕事に就く.
1921年初頭に、さまざまな演劇を中心にした劇場
がオープン.シャガールは舞台の巨大な背景画
を多数制作する.

1922年の7月にシャガールはロシアを出て
ヨーロッパに回帰する.これをシャガールは、
政治的な理由からではなく、芸術上の理由から
と言っている.おそらく半分はそのとおりかも.

しかし半分は政治的な理由が働いていたに
違いない.ロシア革命の暴徒により愛妻ベラの
実家が襲われて、全てを失ったりもしている.

シャガールは、新政府の芸術委員などの
公職に就いたりはしたが、ロシアでの生活に
安らぎを感じていたわけではなかったよう.

1923年にシャガールはモスクワを去り、フランスに戻る.
パリへ戻る途中、ベルリンに約10年ほど放置したままに
なっていた多くの絵画を引き取るためにベルリンに
立ち寄るが、すべて引き取ることはできず、シャガールの
初期作品の多くは紛失状態となった.

九年前にパリを出た時、シャガールは多くの作品を
ラ・リューシュに残してきた.しかしそれらも殆ど残って
おらず略奪されていた.シャガールの作品はすでに
高い評価を受けていたので、高い値段で売れたのである.

ともあれ、このベルリンとパリの事件に
シャガールは大きなショックを受けた.

それからシャガールは、パリ時代の描いた絵を
思い出して、それらを復元する絵を新たに描いた.
そんな時期に描かれたのが本作「農民の生活」.

また、新しい作品を描くにあたっては、
同じようなものを二枚描くというスタイルを
とるようになった.こうしておけば、自分の作品が
再び同じような略奪にあっても、保存の可能性
が高まると考えたのであろう.

これが、シャガール作品が2枚存在する理由だそう.