逝く人、散る桜、響く心 | チャコティの副長日誌

チャコティの副長日誌

主役になれない人生を送るおじさんの心の日記.
猫と映画、絵画、写真、音楽、そしてF1をこよなく愛する暇人.
しばし副長の心の彷徨にお付き合いを….

 

 

 

贔屓の批評家:小田嶋隆が日経にずいぶんとぺシミックな文を載せていた.
私個人的にはそれ程の衝撃ではなかったが、コロナ死の遺体の扱いで
多少驚いたこともあり、追悼の意味で以下に転載する.

(日経 小田嶋隆「Pie in the sky ~絵に描いた餅ベーション」から) --------------------------------------------------------

志村けんさんの訃報は、ちょうど桜が満開を迎える時期に届けられた.
通りがかりの桜の枝を見上げながら、満開の花の姿よりも、舞い落ちる
花びらに強い印象を抱いた人も、少なくないはずだ. おそらく、桜が日本人に
愛されている理由のひとつは、その儚い散り際が、 身近な人間の死を
思い出させるからだと思う.

さて、メディア発の情報にさらされている時代の人間は、縁遠くなっている親戚や、
長らく行き来のない知人よりは、画面を通じてよく知っている著名人の死に、
より大きな喪失感を抱く. これは、異常なことではない. 不道徳な反応でもない.

人は、誰であれ、自分自身を強く投影した対象に支えられている. とすれば、
その自分自身の分身である誰かの訃報を悲しむのは、ごく当然のリアクションだ.
バーチャルな家族たる有名人の死が、何万という人々の心にリアルな悲嘆を
もたらすこと自体も、決して不自然ななりゆきではない.

それゆえ、志村けんさんのこのたびの突然死は、先々月来続いている新型
コロナウイルスをめぐる騒動に、新たな展開をもたらすことになるはずだ.
というのも、それまで「他人事」としてパンデミックを傍観していた人間が、
志村氏の訃報をきっかけに、にわかに真剣な表情でニュースを受け止める
ようになった事例を、私の観察範囲だけでも、何十例となく確認できるからだ.

結局、1人の有名人の死が、専門家のアドバイスや政治家によるテレビ演説
よりも、はるかに強いメッセージをもたらしたことになる. とはいえ、副作用もある.
有名人の死をきっかけにうつ状態に陥る人の数は、 われわれが考えている
よりも、ずっと多い.

死は、災難を避けるための警告として機能するだけのものではない.
有名人の死は、時に、精神的に弱っている人間にさいごのとどめを刺す.
うつ状態というほどではなくても、志村氏の訃報に触れて以来、なんとなく
ふさぎ 込んでしまっている日本人は、たぶん万単位で存在している.

私自身、学校を出て最初に就職した会社を1年足らずで退社してしまった
直接のきっかけは、ジョン・レノンというロックスターが射殺されたニュースに
触れたことだった. 宙ぶらりんの状態で日々を過ごしている若者にとって、
尊敬するアーティストだったり、 子供の頃からのなじみ深く思っているコメディアン
のような存在が、突然この世界から 消えることは、世界の半分が真っ暗に
なるに等しい.

と、その衝撃をマトモに受けて しまった彼または彼女は、しばらくの間、マトモな
判断ができなくなる. 「何をおおげさな」と思っている向きもあるだろう.
たしかに、多数派の日本人に とっては、どんな有名人であれ、他人の死は
他人の死にすぎない.

ただ、この世界には孤独な魂を持った人々がたくさん暮らしている.テレビやネット
経由で心を通わせている電波上の(あるいは回線上の)知人を、 本当の家族と
考えることで孤独を癒やしているそうした人々にとって、 有名人の死は、家族の死
に等しい打撃だ.

思うに、孤独は、ウイルス感染症とは逆の境地だ. 治癒のためには、他人の
孤独に共鳴しなければならない.
その意味で、志村さんの死は巨大な損失だった. ご冥福をお祈りしたい.

 .