【90's DOOR 003】撮り始めは中央線で | たいちょ〜の心のつぶやき 第2章

たいちょ〜の心のつぶやき 第2章

『縁は、連結する』鉄道など交通を中心に興味の赴くままに、日々呟き語るブログ。
※最近すっかり鉄道ルポタージュ化してますが、言いたいことを素直に言うという意味でブログタイトルは変えてません。

鉄道写真の撮り始め。
きっかけになったのは、やはり中央線沿線に住み、乗る機会が度々あったことだった。
1回目の時のような家族旅行みたいなイレギュラーなイベントではなく、母方の実家が上野原にあったため
半ば定期的に(理髪店だったため、髪を切りたいタイミングで)泊まりに行くことがあった。
それが4歳頃から一人で行くようになり、様々な電車・列車に間近に接するようになったのは大きかった。

101系相模湖行き臨電
クモニ83・クモユニ82の荷物電車
201系国電の大月乗り入れ

…等々。
この他には母のお供で甲府まで183系「あずさ」に乗ったとか、東武線を乗り継いで葛生まで行ったりとか
母にせがんで菊名・大口駅を見たいがために乗りに行ったり、京葉線目的で葛西臨海水族園に行ったり。
猛暑の中銀座の松屋へ行ったが、銀座で迷いに迷って呆れられてしまったりとかというのもあった。
加えて鉄道月刊誌を買うようになっていたから、撮るのに興味が向くのは自然な流れだったのかもしれない。
さらには、近所に下宿していた大学生の誘いで青春18きっぷの日帰り旅に出たのも大きかった。

加えて1991年。
誕生日プレゼントにカメラを貰ったのも、さらに撮影欲に拍車をかけた。
とはいえ、母方の実家に帰る以外は余り出歩ける環境で無かったので、そのタイミングとお小遣いの余裕が
ある時にフィルムを買って、一枚一枚考えながら撮っていたようだ。

1991.12.22 国立にて

当時あった北側(上り線側)の側線。
3番線と通称されていたが、柵が建てられ乗降はできなかった。
ここにたまに貨物や回送途中の珍しい列車がよく停車していて、乗るタイミングで時々カメラを向けていた。
この時はたまたま、旧松本地域色の169系、それも原型ヘッドライトの車両が停車していた。
すでに一部が三鷹に転属した頃のはずだが、編成番号で追うとそのまま松本に留まっていたようである。
いずれにしても当時は珍しかったので、上野原に行く時だったが思わず上りホームに行って撮ったらしい。
(それでも十分時間に余裕を持たせていた節があるのは、今に始まったことではなかったようだ)

立川にて

当時の青梅線は、中央線からの直通以外は103系の天下。
それもまだまだ低運転台車が多く残っていた頃だったし、編成も4両編成が多かった。
今じゃ信じられないが、日中の青梅行きが4両編成だった運用も結構見られた。

ただこの時期は埼京線等からの転属の影響だったのかATC搭載仕様の高運転台車が増え始めていて、逆に
珍しくなってつい撮ってみたのかもしれない。
しかも連結器が電連化されたばかりだったらしく、ジャンパ線を撤去した跡が目立っていた。

…まぁいずれ書くが、うちは高運転台車はあまり好きではなかったんだけどね(笑)
※運転台の仕切り窓が扉にしかなかったため

同じく立川にて。

今までもさんざん書いてきているが、鉄道を好きになるにあたってやはり115系の影響は強かった。
しかも当時はまだ前面に行き先を表示していた。
側面方向幕が整備された1993年12月までは、このスタイルだった。

1991.12.23 大月にて

そしてこの翌日、何故か大月で撮影した写真が残っている。
上野原から国立に帰るには逆方向なのだが、それでも撮っていたのは、多分都留にある母方の実家のお墓に
お参りに行き、その帰りしなにそのまま大月駅で車を降ろしてもらったからなのかもしれない。

しかもこの先頭のクハ115、原型ヘッドライト車だがなぜか方向幕が筆書きフォント?
通常品が破損して代用していたのだろうか??
ちなみに115系の原型ヘッドライト車を撮影していたのは、現時点でこの1枚しか発見していない。

また当時は、115系3両単独で本線を走る姿が多く見られた。
それも山梨県内に限らず立川まで3両のみで乗り入れていた列車があったのだから、今となっては驚きだが。

特急かいじは、183系国鉄特急色オンリー。
かいじとあずさの一部は、まだこのカラーが主力だった。

そして、大月から乗った確たる証拠に、富士急行線の電車も敷地外から撮っていた。
当時の主力は、元小田急2200形の5700系。
それも貫通型・非貫通型をまとめて撮れていたから引き合わせがいい。
結局乗れはしなかったが、こうしてのちのち貴重な記録として残るのだから撮っておくものだ。

四方津にて

上野原からの帰りは、だいたい立川まで直通で行く列車に乗るのが常だった。
201系の大月乗り入れ開始からしばらくは、上野原15:08発の快速東京行きに乗っていたのだけど、次第に
やっぱり115系の方がいいなと小学生のガキなりに思い直したらしい(笑)
115系のボックスシートとMT54のサウンドは、自分の鉄道人生の核として今もなお残っている。

この時は、上りあずさを待避。
うまいこと後打ちを収められた。